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書籍『アタリショックと任天堂』批判――「アタリショック捏造論」という妄想 [レビュー]


アタリショックと任天堂: 「アタリショックは任天堂の捏造」という捏造

アタリショックと任天堂: 「アタリショックは任天堂の捏造」という捏造

  • 作者: 広田哲也
  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2020/08/14
  • メディア: Kindle版

「アタリショック」という概念、言葉は任天堂が捏造したものだったのか? 答えはここにある。 (任天堂雑学blog)
「アタリショックの嘘と誤解」の嘘と誤解(その2) (同上)

 本エントリーは、Webサイト「任天堂雑学」を運営する広田哲也氏が上梓した書籍『アタリショックと任天堂』を批判するものである。
 当該書籍は極めて難点が多いが、特に看過できないのが副題にも挙げられている「アタリショックは任天堂の捏造」とのテーマだ。

 広田氏は『アタリショックと任天堂』を執筆するに至った動機として、とあるブログの主張に疑問を感じことにあると述べている。本書の中では(何故か)名が明かされていないが、これはゲーム史研究家のhally(田中治久)氏が2004年に公開した記事のことだ。

「アタリショック」の嘘と誤解 (classic 8-bit/16-bit topics)
「アタリショック」と「ヴィデオゲーム・クラッシュ」 (同上)

 広田氏によれば、hally氏は次のように主張しているそうだ。「アタリ・ショックという概念は、任天堂がアタリ社との訴訟において、ライセンス制度を正当化するための方便として言い出したものに過ぎない(本書 p2)」と。つまり「アタリショックは任天堂の捏造」とは、hally氏の主張を言い換えたものであるわけだ。
 そこで本書は、アタリショック捏造論とでも言うべきこの奇説を起点として、我が国での市場崩壊観の変遷を紐解いていく。しかし端的に言って、この問題に対する著者の見解は悉く間違っているのである。
 以下、本書で行われている議論がいかに独善的かつ空虚なものであるかを示していく。

 本エントリーを読むにあたり、必ずしも『アタリショックと任天堂』に目を通している必要は無いが、発端となったhally氏のブログ記事、およびそれに応答している広田氏のブログ記事の内容を把握しておくと理解の助けになるだろう。



 まず、根本的な疑問点として、『アタリショックと任天堂』が提示するhally氏の主張は、実際に行われているものと全く異なる。
 hally氏の元々の主張を要約すると、次の通りになる。「任天堂がアタリ社との裁判において提出した数値的資料が、市場崩壊の全責任はアタリ社にありとする一面的な市場崩壊観の醸成に影響を及ぼしたのではないか」と。hally氏の主張は断定的ではなく、あくまで可能性を述べたに過ぎない。
 しかし本書は、「捏造」「方便」などという原文に存在しない極めて強い言葉を用いる。「捏造」とは実際になかったことを事実のようにこしらえることだ。これに対して「方便」とは、ある目的を実現するための便宜的な手段のことである。「嘘も方便」という慣用句から誤解されるむきもあるが、本来、「方便」において持ち出されるものが全て虚言であるとは限らない。本書は明らかに「捏造」と「方便」を混同している(としか思えない)のだが、ここでは問わないことにする。

 ともあれ、本書が敢えて「捏造」「方便」という表現を用いるからには、任天堂が悪意を持って――即ち、一面的な市場崩壊観が「事実と異なることを知っていながら」言い出したものであるとの意味合いがhally氏の主張に含まれていなければならない筈だ。*注1
 しかし繰り返しになるが、hally氏はあくまでアタリ社に対する任天堂の抗弁内容がその後の市場崩壊観に影響を与えた可能性を提示しただけだ。しかもhally氏は別の記事で、陰謀論のように受け止められることは本意ではないとわざわざ明言しているのである。
 つまりhally氏の主張を、「アタリショックは任天堂が裁判に勝つために言い出した方便」や「アタリショックは任天堂の捏造」などと要約することは不当の一言なのだ。

 もちろん、我が国における市場崩壊観の変遷や、廉価ホームコンピュータの影響といった付随する論点に対して検証や批判を行うことは何ら咎められるものではない。あるいは百歩譲って、一面的な市場崩壊観の形成に任天堂が影響を及ぼした可能性を疑うことすら認められないと主張したいのであれば、それは好きにすれば良い。
 しかし、本書の副題に挙げられているほどの核心的なテーマが、元々の主張と乖離しているようではお話しにならない。この時点で、本書の主たる議論の前提は破綻しているのだ。

 さて、誤った認識を出発点として議論を進める本書は、アタリショック捏造論(実際にはそんなものは存在しないのだが)の嚆矢を約30年前に出版されたビジネスマン向けの新書に発見する。それは、高橋健二著『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』(カッパ・ビジネス 1991年)である。
 以下、『アタリショックと任天堂』において引用されている箇所を示す。

「アタリの教訓」は独占支配のための創作だった?
 任天堂はサードパーティとライセンス契約を結ぶ理由を、「アタリショックの教訓」に関連づけて説明する。
 アタリショックを繰り返すな、を合言葉に、任天堂はこれまで市場コントロールの正当性を主張してきたのである。
(高橋, p164-165)

 確かに高橋氏の主張には、「創作」との文字が見て取れる。
 これを受けて本書は、次のように分析する。我が国で初めてアタリショックとの言葉が登場したのは、1990年の日経エレクトロニクス誌と考えられる。その半年後に出版された『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』こそが、アタリショックという新語を広く拡散させるとともに、それが任天堂の創作であるとのデマを人々に印象付けたのではないかと。
 しかし奇妙なことに、本書で引用されている範囲は限定的だ。高橋氏は一体どのような根拠に基づいて、アタリショックが任天堂の「創作」であるとの推論に至ったのか判然としない。
 ……勘の良い方はお気づきであろう。またしても本書は、他者の主張を捻じ曲げているのである。

 まず高橋氏は、通俗的なアタリショックの説明を否定していない。『アタリショックと任天堂』が引用したページから遡るが、次のように述べている。

 任天堂の市場コントロールが話題になるとき、いつも引き合いに出される「アタリショック」。これは米国の経済学の授業で必ず取り上げられる実話だ。
 アップルやコモドールと同じくベンチャーとして始まったアタリ社は、アーケードマシンの開発を経て77年に「アタリVCS(ビデオコンピュータシステム)」を家庭向けに発売。81年までに1200万台(全米世帯数の15パーセント)、約五千億円の売り上げを記録する。だが、この年を境にしてアタリVCSとそのゲーム市場は「消滅」する。
 開発力のないサードパーティが多数参入したこと、アタリ社の古い経営体質に嫌気がさしたプログラマーが次々とスピンアウト(退職・独立)し、アタリ自身も開発力が低下したためだ。
(高橋, p83)*注2

 では、高橋氏が主張する「創作」とはいかなる意味なのか。先に本書が引用した箇所(水色で文字を示す)も含めて、原文の続きを見てみよう。

「アタリの教訓」は独占支配のための創作だった?
 任天堂はサードパーティとライセンス契約を結ぶ理由を、「アタリショックの教訓」に関連づけて説明する。
 アタリショックを繰り返すな、を合言葉に、任天堂はこれまで市場コントロールの正当性を主張してきたのである。

 歴史は繰り返すという。だが、過去の歴史がそのまま繰り返された例はない。むしろ過去の失敗を教訓に、思い切った政策変更や体質変換ができないばかりに衰退していった国家や企業も少なくない。
 任天堂の市場コントロールの目的は、ほんとうにアタリショックの失敗を繰り返さないためだけだろうか。
(高橋, p164-165)

 「~だけだろうか」との言葉(英語で言うとnot only~である)からわかるように、やはり高橋氏は通俗的なアタリショック観を自明の事実とした上で議論を進めている。
 さらに、高橋氏の主張は次のように続く。

(中略)
 第一、いくら任天堂がソフトのタイトル数を規制しても、ファミコン用のソフトメーカーだけで97社となった今日、その氾濫を押えることは有名無実になってしまったのだ。
 「ライセンス契約を求めてくるソフトメーカーに対し、契約を拒否したり、ゲームソフトを作るなとは言えない」
 今西氏*注3はそう言うが、ほんとうにゲームソフトの氾濫を押えるつもりなら方法はいくらでもある。任天堂自身、単なる私企業だ。国家機関でもなければ公共企業体でもない。私企業の契約は当人同士の随意なのだ。そうである以上、ライセンス契約を拒否することもできる。ライセンス契約を乱発しておいて、いまさら「ゲームソフトの氾濫を押えるため」という言い分は筋が通らない。
(高橋, p166)

 ファミコンの時代、任天堂はライセンス契約において「年間発売タイトル数は3点まで」との条件をサードパーティに課していた。その際に任天堂が持ち出していたのが、「アタリの教訓」に基づきゲームソフトの氾濫を防ぐためという理屈である。しかし、サードパーティの数が大きく膨れ上がった1991年の時点において、その説明はもはや成り立たないのではないかと高橋氏は指摘しているのだ。
 つまり、高橋氏の著書における「創作」とは、アタリショックが事実に基づかない作り事であると主張しているのではない。ライセンス制度に対する任天堂の説明は言行不一致であり、その欺瞞的態度を「創作」と言い表しているわけだ。(尚、念のために書くが、高橋氏の見解が妥当であるか否かはここでは争わない。問題なのは「何が書かれているのか」である)

 以上のように、高橋氏がデマを述べているとする『アタリショックと任天堂』の分析は不適切である。そればかりか、原文で主張されていることの真意が全く汲み取られていないのだ。

 かくして、誤謬に満ち溢れた考察を二度に渡って披露した本書は、次のように結論付ける。

 「アタリ・ショック」などなかったという説は交通事故で当事者や目撃者が一致しているのに、それ以外の人物が当事者の主張を無視して、ウワサ話程度の情報から事故などなかったと主張しているようなものである。(p226-227)

 またしても本書は不当な言い換えを行っている。
 「アタリショックなどなかった」と言っている人間とは一体誰のことであろうか?hally氏はあくまで一面的な市場崩壊観に疑義を唱えただけだ。そして高橋健二氏は、通俗的なアタリショック観をなんら否定していない。両者の主張とも、断じてそのように表現できるものではないのだ。

 事ここに至って、真の問題がどこにあるかは明白だ。著者の広田哲也氏は、hally氏および高橋健二氏の主張を正しく理解していない。常識的な日本語の読解力を持つ者なら当然読み取れるはずの論旨を解せず、一部の言葉尻を捉えてありもしない捏造論を見出している。
 これはある意味、悲劇である。著者は10数年以上に渡って、この世に存在しない「アタリショック捏造論」という名の妄想に深く捕らわれ続けているのだ。

 著者は2000点の資料に基づき『アタリショックと任天堂』を執筆したと述べている。そうであるのなら、まずは1点の資料に対して虚心坦懐な態度で向き合い、その内容を正確に把握できるように努力することから始めるべきであろう。


*注1 ここでの悪意とは倫理的、道徳的な意味ではなく、「ある事情を知っていること」を指す。
*注2 尚、高橋氏のアタリショックに関する説明は正確ではない。VCSの販売台数が1200万台に達したのは1983年である。
*注3 1991年当時、任天堂の総務部長を務めていた今西紘史氏のこと

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