書籍『アタリショックと任天堂』批判(4) [レビュー]
〇loderun氏の拙著への反論について(3)
書籍『アタリショックと任天堂』への批判に対して、著者の広田哲也氏より3度目の応答を記したブログ記事が公開されている。
前回、広田氏は「これ以上の返答は差し控えると」と述べていた筈であるが、その言を翻してわざわざ反論いただいたとあっては、こちらもお応えするのが礼儀だろう。
とはいえ、その内容は率直に言って実のあるものではない。
広田氏は『アタリショックと任天堂』において、日経エレクトロニクス誌に掲載されているグラフとメリルリンチの資料を提示したものの、どちらが妥当であるかとの考察は行っておらず、さらに前者は正確性そのものが疑わしいと述べている。*注
……本当に広田氏は、私のエントリーを読んだのだろうか?そのような議論をこちらは全く提起していないのである。
誤解の無いように改めて記す。前回のエントリーは、アタリショック当時の市場規模を示す2点の数値的資料について、そのどちらが妥当であるかを論点としていない。
そして、私が問題視しているのは次の事柄だ。広田氏は、日経エレクトロニクス誌のグラフがアタリとの裁判において提出されたものであると仮定した上で、任天堂が自身に都合のよい数字をこしらえたのではないかと述べている。これは「任天堂が捏造行為を働いた」と主張しているに等しいわけだが、そのような憶説は自身が否定するアタリショック捏造論と何が違うのかと指摘したのだ。つまり広田氏が行うべきは、この部分における自身の資料解釈の正当性を示すことである。
しかし広田氏はこのことを無視し、またしても「論点のすりかえ」という詭弁を弄している。どうやら広田氏は、問われていることに答えず、問われていないことを饒舌に語る答弁姿勢が骨の髄まで染みついているようだ。
最後に、広田氏は今回のブログ記事の冒頭において、より有意義な議論を行うべきではないかと述べている。せっかくの機会なので明言しておくが、私の一連のエントリーは広田氏のみに向けられているものではない。『アタリショックと任天堂』をすでに読んだ人、あるいはこれから読もうとしている人に対して、その内容には大いに疑義があることを直接的に示すことを目的にしている。つまるところ、何が有意義であるかを広田氏に指図される謂れはないのだ。
前回のエントリーの繰り返しになるが、広田氏が自身に向けられた指摘に答えないばかりか、的外れな戯言を繰り返すことを選ぶのであれば、それは好きにすれば良い。私も好きにさせていただく、それだけである。
*注 広田氏は、日経エレクトロニクス誌のグラフにおける市場規模について、出荷数量に推定小売価格を掛けたものではないかとの推測を述べている。
さて、単純に疑問なのだが、当該グラフは『任天堂アメリカ、ソフト管理と消費者情報の収集で40億ドルの市場を築く』と題した記事に掲載されており、米全体や過去のアタリの実績に加えて、1986年以降のアメリカにおける「任天堂の売り上げ」を示したものだ。つまり広田氏の推測に基づくなら、任天堂は自身が正確に把握している出荷額ではなく、わざわざ小売価格から推定した売上を同社の業績数値として提供していることになる。そして、同一のグラフ内に何の注釈も無く、「出荷台数」と「小売売上高」などと要素が異なるデータを併記することは一般的ではない(通常は「出荷台数」と「出荷額」、または「小売売上台数」と「小売売上高」のように要素を揃える)。そのことに日経エレクトロニクス誌の記者は気づかなかったのだろうか?
つまり広田氏の推測は、任天堂と日経エレクトロニクス誌のいずれか(または両方)が非常識なことを行っていなければ成り立たない話となる。
(当blogの関連記事)
〇書籍『アタリショックと任天堂』批判――「アタリショック捏造論」という妄想
〇書籍『アタリショックと任天堂』批判(2)――ただしソースは2ch
〇書籍『アタリショックと任天堂』批判(3)――人はそれを「捏造」と呼ぶ
(2021/5/4) 本文中の「議論のすりかえ」を「論点のすりかえ」に訂正
書籍『アタリショックと任天堂』への批判に対して、著者の広田哲也氏より3度目の応答を記したブログ記事が公開されている。
前回、広田氏は「これ以上の返答は差し控えると」と述べていた筈であるが、その言を翻してわざわざ反論いただいたとあっては、こちらもお応えするのが礼儀だろう。
とはいえ、その内容は率直に言って実のあるものではない。
広田氏は『アタリショックと任天堂』において、日経エレクトロニクス誌に掲載されているグラフとメリルリンチの資料を提示したものの、どちらが妥当であるかとの考察は行っておらず、さらに前者は正確性そのものが疑わしいと述べている。*注
……本当に広田氏は、私のエントリーを読んだのだろうか?そのような議論をこちらは全く提起していないのである。
誤解の無いように改めて記す。前回のエントリーは、アタリショック当時の市場規模を示す2点の数値的資料について、そのどちらが妥当であるかを論点としていない。
そして、私が問題視しているのは次の事柄だ。広田氏は、日経エレクトロニクス誌のグラフがアタリとの裁判において提出されたものであると仮定した上で、任天堂が自身に都合のよい数字をこしらえたのではないかと述べている。これは「任天堂が捏造行為を働いた」と主張しているに等しいわけだが、そのような憶説は自身が否定するアタリショック捏造論と何が違うのかと指摘したのだ。つまり広田氏が行うべきは、この部分における自身の資料解釈の正当性を示すことである。
しかし広田氏はこのことを無視し、またしても「論点のすりかえ」という詭弁を弄している。どうやら広田氏は、問われていることに答えず、問われていないことを饒舌に語る答弁姿勢が骨の髄まで染みついているようだ。
最後に、広田氏は今回のブログ記事の冒頭において、より有意義な議論を行うべきではないかと述べている。せっかくの機会なので明言しておくが、私の一連のエントリーは広田氏のみに向けられているものではない。『アタリショックと任天堂』をすでに読んだ人、あるいはこれから読もうとしている人に対して、その内容には大いに疑義があることを直接的に示すことを目的にしている。つまるところ、何が有意義であるかを広田氏に指図される謂れはないのだ。
前回のエントリーの繰り返しになるが、広田氏が自身に向けられた指摘に答えないばかりか、的外れな戯言を繰り返すことを選ぶのであれば、それは好きにすれば良い。私も好きにさせていただく、それだけである。
*注 広田氏は、日経エレクトロニクス誌のグラフにおける市場規模について、出荷数量に推定小売価格を掛けたものではないかとの推測を述べている。
さて、単純に疑問なのだが、当該グラフは『任天堂アメリカ、ソフト管理と消費者情報の収集で40億ドルの市場を築く』と題した記事に掲載されており、米全体や過去のアタリの実績に加えて、1986年以降のアメリカにおける「任天堂の売り上げ」を示したものだ。つまり広田氏の推測に基づくなら、任天堂は自身が正確に把握している出荷額ではなく、わざわざ小売価格から推定した売上を同社の業績数値として提供していることになる。そして、同一のグラフ内に何の注釈も無く、「出荷台数」と「小売売上高」などと要素が異なるデータを併記することは一般的ではない(通常は「出荷台数」と「出荷額」、または「小売売上台数」と「小売売上高」のように要素を揃える)。そのことに日経エレクトロニクス誌の記者は気づかなかったのだろうか?
つまり広田氏の推測は、任天堂と日経エレクトロニクス誌のいずれか(または両方)が非常識なことを行っていなければ成り立たない話となる。
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〇書籍『アタリショックと任天堂』批判――「アタリショック捏造論」という妄想
〇書籍『アタリショックと任天堂』批判(2)――ただしソースは2ch
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(2021/5/4) 本文中の「議論のすりかえ」を「論点のすりかえ」に訂正
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