書評『ゲームの歴史 1』(岩崎 夏海、稲田 豊史) [レビュー]
『ゲームの歴史』、2022年11月発刊。著者は岩崎夏海氏と稲田豊史氏の連名。計三巻が出版されているが、以下は第一巻のみを読了した感想である。
書名が示すように、本書はコンピュータゲームの歴史書を標榜している。
この『ゲームの歴史』に関しては、著者の一人である岩崎夏海氏のTwitter上での発言が物議を醸した。曰く、「データを用いると恣意性に際限がなくなる」「ゲームの世界に客観など存在しない」とのことだ。
〇『ゲームの歴史 1〜3』 / 岩崎夏海, 稲田豊史 (残念な本と残念な著者の話)|keigo|
この発言を目にした時点での僕はまだ『ゲームの歴史』を入手していなかったのだが、異論や反発を覚える以前にそもそも意味がわからなかった。データを用いず、また客観性を担保しないまま書かれた歴史書というものが全く想像できなかったからだ。
歴史とは、人・事件・世界のありようの時間的変化のことですが、その変化には全て“理由”があります。
ゲームの歴史でいうなら、それまでに見たこともなかったゲームが登場したことにも、あるゲームが爆発的に売れたことにも、ちゃんと理由がある。何かが起こったことには、必ずその原因がある。これを「因果関係」といいます。 (p.6)
以上は本書の前書きに書かれている言葉だ。物事の理由や因果関係を正しく理解し、そして説明するためには、尚のことデータや客観性は重要なはずである。Twitter上の発言とはますます乖離が深まる。
……そう、端的に言って、本書はあらゆる意味で歴史書として「普通」ではないのだ。
■誤謬の大博覧会
まず、本書は『ゲームの歴史』と名乗りながら、対象範囲が極めて限定的である。第一巻が取り上げているのは1958年の『Tennis for Two』から1990年代初頭までの期間だが、1983年にファミリーコンピュータが登場して以降はほぼ任天堂ハードで発売された国内タイトルにページが費やされる。
そして、本書で提示される歴史認識は非常に誤りが多い。例えば1977年に発売された家庭用ゲーム機のアタリVCSに関する記述を見ると、アクティビジョンを設立した開発者の動機としてアタリがインセンティブ報酬を認めなかった点を挙げず、移植版『パックマン』がVCSを救った(むしろアタリ社凋落の原因の一つ)、『E.T.』のゲーム化企画を推進したのはアタリ社経営陣(正しくは親会社のワーナー)などと、前書きで因果関係を学ぶことの意義を述べておきながらあまりにお粗末だ。
〇書籍「ゲームの歴史」について(1) | Colorful Pieces of Game
その他、本書の誤謬や出所不明な記述についてはゲーム開発者・ライターの岩崎啓眞氏がすでに大量の指摘を行っているが、誇張抜きで本書は「固有名詞以外全て間違っている」という一節が頻繁に登場する。
もちろん、人間誰しも間違えることはある。しかしながら本書の誤謬頻度は、おおよそ一般書籍として発売された歴史書に許容できる限界値を易々と超えているのである。
さらに深刻な問題を指摘しよう。実は本書には、著者が意図的に作り出したと思われる誤りが含まれるのだ。
例えば本書は、黎明期の業務用ビデオゲームである『ポン』を開発したアラン・アルコーンを「電子技師(プログラマー)」と言い表している。しかし同作品の基板はTTL(Transistor-transistor logic)で構成されており、プログラムを実行するマイクロプロセッサ方式ではない。即ち、TTL回路の設計者を「プログラマー」と呼ぶのは、カッコ書きの表現とはいえ明らかに不適切だ。
ところが、話はこれで終わらない。実は本書が主要参考文献に挙げている『それはポンから始まった』(赤木真澄、2005年)と『イノベーターズ Ⅰ』(ウォルター・アイザックソン、2019年)には、『ポン』がTTL方式であることが正しく記されている。つまり著者は、それが不正確であることを知っていながら、「プログラマー」との言葉を使ったとしか思えないのだ。(尚、前掲書の『ポン』に関する記述を見落としたとは考えにくい。『ゲームの歴史』における80年代前半までのアメリカのビデオゲームの解説は、明らかにこの2冊に多くを依拠している。)
著者の真意はわからない。もしかすると、今やTTLはゲームに使われることがない古い技術だから、その説明にページを割く必要はないと考えたのかもしれない。しかし、それは歴史的事実の軽視ではないだろうか。もはやこの時点で、著者にはゲーム史を語る能力が無いと言わざるを得ないのだ。
■揺れる「箱庭」
『ゲームの歴史』は歴史認識に加えて、著者の独自視点に基づいた解説部分も大いに問題がある。その一例をご紹介したい。
本書の中でクローズアップされている言葉の一つが「箱庭」だ。これはミニスケープやサンドボックスといったゲームジャンルのことではない。江戸時代の庶民文化に由来し、小さな箱の中に自然物や建物の模型を配置して現実の風景に見立てる遊具としての箱庭のことである。
著者は箱庭の特性として、作り手の意図と異なる第三者の自由な発想を許容する点にあると述べる。例えば、ある人が紅葉狩りをする山を箱庭の中に置いたとする。これに対して別の人が、「この山の上からスノーボードで滑り降りたら楽しそう!」と妄想を膨らませることができるといった具合だ。
その上で著者は、この「箱庭」の概念はゲームの最も重要なものの一つであり、広大な3D空間を実現した現代のゲームのみならず、過去の名作にも当てはめることができると主張する。
「紅葉狩り用に作った山を、スノーボード場に見立てる」のと同じく、箱庭の本来的な意味を、「制作者の意図を超えて、プレイヤーに高い自由度が与えられている状態」だとするならば、すぐれたゲームはそれよりずっと昔から「ハッキング行為が生まれやすい箱庭的な性質」を持っていました。 (p.17)
引用内に「ハッキング行為」との言葉が登場するが、これも本書の独自定義に基づいている。ここでは「プレイヤーの創意工夫」と言い換えてもらっても特に支障はない。
ともあれ著者は、箱庭の本来的な意味を「制作者の意図を超えて、プレイヤーに高い自由度が与えられている状態」と定義し、その具体例として『スペースインベーダー』の名古屋撃ちと『スーパーマリオブラザーズ』の無限1UPを挙げる。ここまでの部分について指摘したいことは多々あるのだが、一先ずこれらのテクニックを制作者は意図していなかったという点については妥当であると認めよう。
ところが、著者はこの二つの例に加えて、『スーパーマリオブラザーズ』のようにジャンプ中の軌道を制御できることも「箱庭的な自由度」に該当するとの論旨を展開する。
例えば、Aボタンを押してマリオをジャンプさせた後も、十字(方向)キーを右や左に押せば、空中でマリオを操作できたのです。(中略)『スーパーマリオブラザーズ』は、右へ右へ単一方向にしか横スクロールしないアクションゲームでしたが、キャラクターを操る際には、ものすごく高い「自由度」が用意されていたのです。 (p.18-19)
これが『逆転裁判』なら、「異議あり」ボタンを連打しているだろう。
『スーパーマリオブラザーズ』においてプレイヤーがジャンプ中の軌道を制御できるのは、予め仕様として備わっているからだ。「制作者の意図を超えて」との定義は一体どこへ行ったのか?本書は「箱庭」の概念がゲームの最も重要なものであると述べながら、わずか3ページの間で説明がブレているのである。
ちなみに、この後の著者は「箱庭」の概念をゲームデザインのみならず、開発者に広く裁量権を与えることや、ゲーム産業そのものにも当てはめていく(何を言っているかわからないと思うが、本当に書いてある)。牽強付会の一言だ。
念のため断っておくと、僕はこの『ゲームの歴史』の荒探しをするつもりはない。しかしながら、著者が主張したいであろうことを可能な限り補完しながら読み進めても、到底フォローできないような支離滅裂な記述が多すぎるのだ。
■明日の子供たち
第一巻のみを読んだ感想であるが、僕はこの『ゲームの歴史』という書籍が全く理解できない。
なぜ著者はデータや客観性を否定する発言をしたのか、なぜ主要参考文献に記されていることを間違えるのか、なぜ独自定義を振りかざしてまで「箱庭」との言葉を使おうとするのか、なぜこれほど大量の誤謬が含まれる文章が講談社の編集を通過してしまったのか、なぜ「コンピュータゲームの60年史を完全網羅」などと銘打ってしまったのか。
Amazonのレビューの中で、この程度のクオリティは80~90年代のゲーム関連出版物では普通だったとの見解を目にした。確かに、本書の内容は歴史書というよりも、特定の業種や実業家にスポットを当てたビジネスマン向けの軽薄な解説書と似たようなものを感じる。(ただしここまで大量の誤謬が含まれている書籍は滅多にお目にかかれないが)
僕としては、この『ゲームの歴史』は奇書と呼ぶのが一番しっくりくる。「どうしてこうなった?」という疑問と困惑が、読後感として強く残り続けているのだ。
ともあれ『ゲームの歴史』の一番の問題は、見た目の上では正当な歴史書として出版されてしまったことだ。(ジャレド・ダイアモンドよろしく、『ゲーム・箱庭・ハッキング』といった書名であったならば、ここまで注目や批判を集めることはなかっただろうか?)
そして個人的には、本書に対して一つ重大な懸念がある。それは、本書を通じてゲーム史に初めて触れた読者の存在だ。
私たちはこの本を、ゲームクリエイター志望者や、ゲーム業界で働きたい人向けに書きました。 (p.5)
前書きにこのような言葉があるが、より具体的に言うと本書は小学校高学年以上の10代を主要読者に想定しているようだ。
実際、『ゲームの歴史』を手に取るとわかるが、文章表現は親しみやすく、注釈や漢字のふりがな(ルビ)も非常に多い。どれくらい多いかというと、「任天堂」「面白さ」「伝説」といった言葉にまでルビが振られている。内容の正誤(ほとんど誤なのだが)を抜きにすれば、若年読者に配慮されていることは明白だ。そしておそらく、すでに本書を受け入れてしまった学校図書館も存在するだろう。
これが杞憂で済めばよいのだが、「岩崎・稲田史観」を信じるチルドレンがこの先無視できないほど現れる可能性は十分あり得る。
今後、『ゲームの歴史』はどうなるのか?著者の一人の岩崎夏海氏は、Twitter上で「増刷することがあれば誤りは修正する」と発言している。現時点で版元の講談社からの公式なアクションはないが、これほど大量の誤謬を正すとなると全文書き換えレベルの作業になることは避けられないだろう。(個人的には、歴史的事実を説明した部分の誤りだけでも今すぐ正誤表を公開して欲しいのだが)
最後になるが、アタリVCS『E.T.』の作者のH.S.ウォーショウは『Once Upon Atari』の中で、自身が生み出したゲームが「史上最悪」と呼ばれ、ビデオゲーム産業を破壊した原因との悪評を受けるに至ったことに対して、アイン・ランドの言葉を引用している。
「現実を無視することはできるが、現実を無視した結果を無視することはできない」
『ゲームの歴史』の関係者にこの言葉を贈るとともに、真摯な対応を切に希望します。
(Amazonリンク)
Once Upon Atari: How I made history by killing an industry
- 作者: Warshaw, Howard Scott
- 出版社/メーカー: Scott West Productions
- 発売日: 2020/12/14
- メディア: ペーパーバック
(2023/3/4) 誤字、脱字、その他一部の文章表現を修正。
コメント 0