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書籍『アタリショックと任天堂』批判(2)――ただしソースは2ch [レビュー]

loderun氏の拙著への反論について (任天堂雑学blog)

 書籍『アタリショックと任天堂』を批判した先のエントリーに対して、著者の広田哲也氏よりブログ記事を通じて返答があった。
 速やかに反応いただいたことにお礼を申し上げるとともに、ご指摘の件について当方の見解を述べたい。

 まず広田氏は、当該書籍はネット上で見かける「アタリショックなかった論」全般に対して向けられたものであり、hally氏の主張のみへの反論ではないと述べる。その「なかった論」の事例として挙げられているのが、以下のリンク先だ。

【衝撃】アタリショックは任天堂の捏造だった!

 ……まさかのゲハ板である。
 なるほど、おおよそ真摯な議論など期待できない匿名掲示板の、「論」と呼ぶのもおこがましい書き込みが、広田氏にはまともに取り合うべき言説に映るようだ。せっかくだから今度は、先のスレッドに対して逐一マジレスしていく書籍を執筆してはどうであろうか。

 さて、次に広田氏は、『アタリショックと任天堂』におけるhally氏の主張の要約は不正確であると指摘したことに対して反論を行っている。私はhally氏の主張を「断定的ではなく、あくまで可能性を述べたに過ぎない」と評したが、広田氏によればそんなに穏当な内容ではないそうだ。
 そこで改めて広田氏は、hally氏の主張を次のように箇条書きで示している。

(1)アタリ周辺だけに責任を押しつけるような「アタリショック」史観がいつ生まれたのかを解くカギは「アタリショック」という言葉そのものにあるが、誰が言い出したのかはわからない。
(2)そもそも「ファミコンが上陸するまで、北米市場全体が壊滅状態にあった」という歴史認識そのものが定着していなかった。
(3)「アタリショック」という言葉の誕生と同じ頃に、何者かがヴィデオゲーム市場の過去を、歴史観が覆るほど綿密に洗い直した。それがアタリ叩きを目的としたものだったのか、それとも結果的にそうなったのかはわからないが、この時期に、アタリと敵対し、その過去を糾弾しようとしていた企業が任天堂だった。

 その上で広田氏は、(1)については「アタリショック」という言葉の初出と考えられる90年の日経エレクトロニクス誌について言及がなされていない不備があり、(2)(3)は断定的かつ事実誤認であると述べている。*注

 まず断っておきたいが、私はhally氏が2004年に公開したブログ記事に対して全面的に賛同しているわけではない。そして先のエントリーでも述べた通り、hally氏の主張に対して検証や批判を行うことはなんら咎められるものではないというのが基本的な(というか当たり前の)考えだ。
 以上を踏まえて私が言いたいことは一つだ。広田氏が行っているのは「論点のすりかえ」という典型的な詭弁である。

 そもそも、先のエントリーで私が批判したのは次の点だ。hally氏の主張を「アタリショックは任天堂が裁判に勝つために言い出した方便」や「アタリショックは任天堂の捏造」などと要約するのは不当であると。
 にもかかわらず、広田氏はこのことに答えていない。今回、新たに提示した箇条書きからして「方便」「捏造」との言葉は無く、そのことを含意していると思われる文章も(少なくとも私の目からは)見当たらない。そして自身に向けられた批判を無視し、hally氏の主張が妥当であるか否かという別の問題を持ち出している。

 故に、広田氏が行うべきはただ一つだ。hally氏の主張を「アタリショックは任天堂が裁判に勝つために言い出した方便」や「アタリショックは任天堂の捏造」と要約することは正当であると改めて明言し、その根拠を示すことである。

 最後に広田氏は、『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』に対する論評についてミスを認め、著者の高橋氏がオーソドックスなアタリショック論を否定している旨の記述を削除した。しかし、より致命的な誤りである「アタリショック(アタリの教訓)は任天堂が創作した」との表現がほとんど形を変えずに残っているのは理解に苦しむ。
 先のエントリーでも指摘したが、高橋氏の書籍における「創作」とは、「事実に基づかない作り事」という字義通りの意味合いではない。(身も蓋も無いことを言えば、誤用に等しい使われ方をしている)
 そのことを承知の上で表現を残したのであれば、広田氏は意図的に読者を誤った結論へ誘導しようとしていると判断せざるを得ない。

 ……というわけで、ここからは本エントリーを読んでいる第三者の目をお借りしたい。この後に、『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』の当該項目の全文を引用する。果たして広田氏の要約が正当なものであるか、是非とも確かめていただきたい。

(本文以上)

*注 ただし(1)の日経エレクトロニクス誌について、hally氏は2004年5月の記事で本文部分を紹介している。故に、全く触れていないとの広田氏の指摘は不適切である。
 また、2004年のhally氏の記事の正誤を論じるにあたり、どうして2011年に公開した私のblog記事が引用されているのか全く理解できない。広田氏の脳内では何らかのロジックが存在するのかもしれないが、「なぜでしょうかね?」と脈絡なく問われても、こちらとしては「何が言いたいんでしょうかね?」としか答えようがない。



(付記)
 以下は、高橋健二著『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』(カッパ・ビジネス 1991年)内の一項目である『「アタリの教訓」は独占支配のための創作だった?』の全文を引用したものだ。
 前後の主張を欠くため少々わかりにくいかもしれないが、ポイントは次の通りである。

(1)高橋氏の主張において、「創作」との言葉が使われているのは項題のみである。
(2)高橋氏は、通俗的なアタリショック(アタリの教訓)の説明を否定していない。
(3)高橋氏は、任天堂がライセンス制度の正当化にアタリショックを持ち出すことがもはや実態に即していないと訴えている。ただし、任天堂自身がそのことを自覚しているか否かについては検討を行っていない。

 さて、広田氏が言うように、高橋氏の主張を「アタリショック(アタリの教訓)は任天堂が創作した」と表現することは妥当であるだろうか?

「アタリの教訓」は独占支配のための創作だった?
 任天堂はサードパーティとライセンス契約を結ぶ理由を、「アタリショックの教訓」に関連づけて説明する。
 アタリショックを繰り返すな、を合言葉に、任天堂はこれまで市場コントロールの正当性を主張してきたのである。
 歴史は繰り返すという。だが、過去の歴史がそのまま繰り返された例はない。むしろ過去の失敗を教訓に、思い切った政策変更や体質変換ができないばかりに衰退していった国家や企業も少なくない。
 任天堂の市場コントロールの目的は、ほんとうにアタリショックの失敗を繰り返さないためだけだろうか。
 現代の日本では、アタリが大ヒットを飛ばした時代のアメリカと比べると、子供の情報量は格段に増加している。12~13歳で麻薬中毒になる子供がいる米国と、せいぜい登校拒否が社会問題になる日本、あるいは国民の4人に1人が英語で読み書きができない米国と、どんな離島でも衛星放送で都心と同時に同じ情報を入手できる日本とでは、子供を取り巻く環境も違う。
 テレビゲームに対するものの見方や受け止め方も、米国とは比較にならない。裏ワザ情報などの口コミの伝達速度の速さなどは、驚くばかりだ。
 そういう情報に敏感な子供たちに、アタリショックをそのまま当てはめること自体、ユーザーをバカにしていることになりはしないか。仮に駄作ゲームが市場にあふれたとしても、子供たちはすでにそういう判断力を備え、子供同士の口コミネットワークでたちまちのうちに市場から排除されるにちがいない。
 第一、いくら任天堂がソフトのタイトル数を規制しても、ファミコン用のソフトメーカーだけで97社となった今日、その氾濫を押えることは有名無実になってしまったのだ。
 「ライセンス契約を求めてくるソフトメーカーに対し、契約を拒否したり、ゲームソフトを作るなとは言えない」
 今西氏はそう言うが、ほんとうにゲームソフトの氾濫を押えるつもりなら方法はいくらでもある。任天堂自身、単なる私企業だ。国家機関でもなければ公共企業体でもない。私企業の契約は当人同士の随意なのだ。そうである以上、ライセンス契約を拒否することもできる。ライセンス契約を乱発しておいて、いまさら「ゲームソフトの氾濫を押えるため」という言い分は筋が通らない。
(高橋, p164-166)


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みちん

雑誌もそうですが、新書の見出しは編集者がつけるのが一般的なので「創作」という言葉そのものを、しかも疑問符がついているものを高橋氏の主張と断定するのがそもそも不適切と思われます。

by みちん (2021-04-14 11:50) 

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