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書籍『ゲームの歴史』 アタリVCS関連の記述への批判 [レビュー]

 本エントリーは、書籍『ゲームの歴史』(岩崎夏海、稲田豊史 2022年)第一巻について、1977年に発売された最初期のカートリッジ交換型家庭用ゲーム機であるアタリVCS(Video Computer System)に関する記述を批判するものだ。

 周知の通り、当該書籍は既に版元の講談社より絶版・回収措置が取られた。しかしながら、古書市場での流通に加えて、公共図書館等でも引き続き利用に供されていることを確認している。すでに『ゲームの歴史』を読んでしまった人に加えて、これから『ゲームの歴史』に目を通す人もゼロではないことから、詳細な批判を公開することは決して無意味ではないと考える。
 もう一つ、『ゲームの歴史』は1980年代前半までの海外のビデオゲームについて、主要参考文献に挙げられている『それは「ポン」から始まった』(赤木真澄 2006年)の誤認識に起因する不適切な記述が多く含まれる。故に、本エントリーは、同書に対する批判にもなっている。



(1)発売当初のVCSは全く売れなかったのか?
アタリVCSの苦戦と起死回生
 アタリVCSがそれまでの一般的なテレビゲームと違っていたのは、ハードにあらかじめ決められた数種類のゲームが内蔵されているのではなく、別売りのロムカートリッジ(注:中にゲームの基板が入っているカセット状のもの。「ロムカセット」とも呼ばれる)によってゲームを供給する仕組みだったことです。(中略)
 ところが、アタリVCSは売れませんでした。原因は、当時市場に競合ハードが多く存在し、ユーザーがどのハードを買えばいいか迷ってしまったことです。(p.116)

 発売当初のVCSに関する記述だが、元になったのはおそらく『それは「ポン」から始まった』である。

 アタリ社「VCS」は77年10月に、画期的なシステムと、家庭用初のジョイスティックを付けて発売されたが、当初はまったく振るわなかった。あまり多くの機種が出揃ったため、市場が拒否反応を起こしたのだ。
(『それは「ポン」から始まった』 p.167)

 さらに『それは「ポン」から始まった』は、VCSが発売から二年間ほど在庫になった(同書 p.168)との歴史認識を示しているが、結論から言うとこれらは誤りである。
 確かに発売当初、VCSのセールスは派手な立ち上がりではなかった。その理由としては、本体価格が約200ドル(現在の貨幣価値に換算すると750ドル以上)の高額商品であり、また同時期に『マテル・フットボール』に代表されるLED表示型の携帯型ゲーム機がヒットしていたこと等が挙げられる。しかし、発売翌年の1978年には本体の追加生産が行われているので、全く売れなかったわけではない。「徐々に市場シェアを拡大していった」などと表現するのが適切であろう。


(2)アタリの開発者の離脱と移植ゲーム
 ブッシュネルが抜けたアタリ社は、以前ほどヒッピー的な自由さがなくなったといいます。居心地の悪くなったハッカー精神を持つ社員たちは、歯が欠けるようにポロポロと辞めていきました。
 一方、アタリ社に残った人たちが考えたのは、頑張って新しく面白いゲームを開発すること……ではなく、すでにヒットしている他社のゲームをお金を出して引っ張ってきて、アタリVCS用のゲームソフトとして出し直す(これを「移植する」といいます)という方法でした。
 なんという安直な考え方でしょうか。このころになると、アタリ社のハッキング精神はかなり薄れてしまっていたのです。(p.117-118)

 アタリは1976年にワーナー・コミュニケーションズの傘下となり、さらに1978年末に創業者のブッシュネルが役員を退任したこと等から自由な社風が失われたことは一面の事実であるが、このことが原因で優秀な開発者が流出し、さらにアタリVCS用に他社ヒット作の移植が行われるようになったとの説明は大いに問題がある。

 まず開発者の件であるが、より直接的な理由はソフトの売り上げに応じたインセンティブ報酬が認められず、またソフトのパッケージやカートリッジに開発者の名前を出すことも許されなかったからだ。(映画『レディ・プレイヤー1』に登場したアタリVCSソフトの『アドベンチャー』(1980年)が、イースターエッグとしてゲームの中に開発者の名前が隠されていた理由がまさにこれだ)
 最初期の家庭用ゲームは開発規模が極めて小さく、ただ一人の人間がゲーム開発の全てを担当することが一般的であった。しかしワーナー傘下となった当時のアタリでは、金銭と名誉の両面で開発者の貢献が報われず、これに不満を持った者たちの離脱を招いたのである。

 そして他社ゲームの移植についてだが、まず大前提として最初期のカートリッジ交換型家庭用ゲーム機は、プラットフォームホルダーのみがソフトを供給することが常識であり、他社にヒット作の家庭用版を発売してくれるように依頼することなどあり得なかった。そのため、プラットフォームホルダー自身が移植を行うのは当然の流れであったのだが、ここで本書は一つ重大な事実を見落としている。

 実はアタリは、VCSの発売当初から無断移植という形で他社ゲームの模倣作を発売しているのだ。例えば『サラウンド』(1977年)はグレムリンの『ブロッケード』、『アウトロー』(1978年)はミッドウェイの『ガンファイト』を模倣したものである。『ポン』や『ブレイクアウト』のクローン商品に苦しめられたアタリであるが、その一方でVCSに堂々と無許諾の移植ゲームをリリースしていた様に、当時は知的財産権保護のルールが確立していなかったわけだ。ともあれ、ブッシュネルの退任を契機に他社ゲームの移植が行われるようになったとする本書の歴史認識は、その根本から間違っているのである。

 尚、他社のゲームの移植自体を“安直な考え方”とする著者の見解は暴論以外の何物でもない。例えば任天堂が『テトリス』をゲームボーイに移植したことも、著者は安直だと言うのだろうか?


(3)VCS版『スペースインベーダー』と『パックマン』の評価
 そこで「移植ソフト」として白羽の矢が立ったのは、日本のタイトーが1978年に発売して大ヒットを飛ばし、アメリカでも大ブレイクしていた『スペースインベーダー』でした。アタリ社は、同作のアタリVCS移植版を1980年に発売。すると、「あの『スペースインベーダー』が家でもプレイできる!」という触れ込みにユーザーは飛びつき、アタリVCSは売り上げを急激に伸ばします。
 その後、ナムコの『パックマン』も移植され、アタリVCSはますます売れ行きを伸ばしました。なんと、日本人の作った2本のゲームが、アタリVCSを救ったのです。(p.118)

 1980年に発売されたアタリVCS版『スペースインベーダー』は、同年内にミリオンセラーを達成。VCS本体の普及拡大をけん引するキラーソフトとなったことは事実だ。
 さらに特筆すべき点は、『スペースインベーダー』が家庭用機で史上初めて、正式な許諾を受けて他社のゲームを移植した例であったことだ。先に述べた通り、アタリはそれまでにも無断移植という形で他社ゲームの模倣作をVCSに供給していた。しかし、正規の手続きを経てライセンスを取得し、元作品のネームバリューを生かしたゲームソフトが商業的に大成功を収めたことは、画期的な出来事であったと評価するべきであろう。
 (余談であるが、『スペースインベーダー』の移植を提案したワーナー社重役のエマニュエル・ジェラルドによれば、仮に許諾が得られなかった場合は名前を変えた模倣作を発売すべきだと考えていたと証言している。)

 そして『パックマン』の移植版がVCSを救ったとの記述は単純に事実誤認だ。この部分は、『それは「ポン」から始まった』の誤認識に基づいたものと思われる。

 「VCS」用『パックマン』(82年3月)は、これも業務用と似て非なる絵柄にもかかわらず、業務用がヒットしていたので、1200万個以上も売れ、アタリ社に莫大な利益をもたらすことになったからである。
(『それは「ポン」から始まった』 p.176)

 むしろVCS版『パックマン』は、アタリ社凋落の原因の一つと評されている。第一に、アタリ社は1982年初頭の時点でVCS本体の販売台数が600万台程度であったにもかかわらず、楽観的な需要予測に基づき1200万本もの『パックマン』のカートリッジを製造。最終的に700万本が売れたものの、大量の不良在庫が生じる結果となった。そして第二に、VCS版『パックマン』は極めて移植精度が低く、ユーザーの不評を買った。これは、『それは「ポン」から始まった』が記述するように絵柄だけに留まらず、敵キャラの挙動やサウンド等もアーケード版と全く異なっていたためである。

 尚、VCS版『パックマン』に問題があったことは、本書が主要参考文献に挙げている『DIGITAL RETRO』(ゴードン ライング 2006年)や『洋ゲー通信 Airport 51』(須田 剛一、マスク・ド・UH 2008年)でも触れられているのだが、著者は見落としたのであろうか?


(4)アクティビジョン
 一方、アタリ社を離れたハッカーたちは1979年、アクティビジョン社という会社を設立します。同社は世界初の「ゲームソフト開発の専業会社」でした。(p.118-119)

 アクティビジョンを“世界初の「ゲームソフト開発の専業会社」”と表現しているが、背景の説明がないため不明瞭な記述と化している。
 繰り返しになるが、最初期のカートリッジ交換型家庭用ゲーム機はプラットフォームホルダーのみがソフトを供給することが常識であった。これに対してアクティビジョンは、「外部の立場で家庭用機向けにゲームソフトの開発および販売を行う会社」として設立された。平たく言うと、家庭用ゲームにおける世界初のサードパーティーであったのだ。


(5)誰が『E.T.』をゲーム化したのか?
『E.T.』が招いたアタリショック
 1982年6月、全米で『E.T.』という映画が公開されました。監督は、当時立て続けにヒットを飛ばしていた俊英スティーブン・スピルバーグで、全米での興行収入はなんと3億ドル。これは、当時の映画史上最高の成績でした。“超”が3つくらいつく大ヒットです。
 それに目をつけたアタリ社の経営陣は、「『E.T.』のゲームを作れば売れるに違いない!」と考えます。 しかし問題はスケジュールです。映画のヒットを受けてゲーム化権(注:それを題材にしてゲームを作ってもよい、という許可)の取得に走ったアタリ側でしたが、1982年のクリスマス商戦に発売を間に合わせるためには、その年の9月1日までにゲームを完成させなければなりません。ただでさえ時間がないのに、ゲーム化権の交渉に時間がかかってしまったため、制作に充てられる期間はたった5週間しか残りませんでした。(p.119-120)

 アタリVCSソフトの『E.T.』が約5週間と極めて短期間で開発されたことは事実である。しかし、そのゲーム化企画を“アタリ社の経営陣”が推進したとの記述は不適切だ。正しくは親会社のワーナーであるのだが、これは些末な誤りではない。なぜなら、『E.T.』の短い開発スケジュールや高額のライセンス料(詳しくは後述)が決定された背景には、VCS事業に留まらない別の思惑が存在したからである。

 先ほど、ワーナーが『E.T.』のゲーム化企画を推進したと述べたが、より正確に言うとワーナー・コミュニケーションズ会長のスティーブ・ロスが主導したものだ。ロスは若きヒットメーカーとなっていたスピルバーグ監督に、グループ傘下のワーナー・ブラザーズ・スタジオで映画を製作してもらいたいと考えた。しかし当時のスピルバーグはユニバーサルと関係が深く、新たに繋がりを持つ必要があった。そこでロスは、まず『レイダース/失われたアーク』のライセンスを取得しゲーム化を実現。さらに『E.T.』のゲーム化に際し、スピルバーグに対して2,100万ドルものライセンス料が支払われる契約が結ばれた。(これは、ワーナーに映画を作ってもらうための前金であったとの見方が有力だ)

 かくして、『E.T.』は無謀なプロジェクトと化した。『E.T.』のゲームを1982年末に発売するように命じたのもロスだ。(先にスピルバーグと約束してしまったためである)
 また、『E.T.』は開発期間の短さに起因するゲーム内容の酷さに加えて、需要を遥かに上回る500万本ものカートリッジが製造されたことで悪名高い。高額のライセンス料を回収するためには、最低400万本を売る必要があったからだ。無論、そこにはアタリ社の楽観的な需要予測も影響したかもしれないが、『E.T.』のゲーム化企画が大失敗した原因はロス会長の独断に拠るところが大きいのである。


(6)『E.T.』はアタリショックの主要因なのか?
 ただ、『E.T.』以前から、アタリ社も含めたアメリカの家庭用テレビゲーム業界には、危険な前触れがありました。ゲーム市場が短時間で急激に拡大した結果、ゲームを開発したことのないメーカーが「ゲームビジネスは儲かりそうだ」とばかりに次から次へと参入し、できの悪いソフトが大量に発売されていたからです。
 結果、高いお金を出してゲームソフトを買ったはいいが、クソゲーをつかまされたユーザーが警戒心を強め、以前ほどはゲームソフトを買わなくなってしまう――という現象が起こっていました。 そんな状況に、アタリ社は焦ったのでしょう。ここらで一発、話題になるソフトをドカンと投入して市場を盛り上げなければ――と。しかし、その試みは失敗したわけです。
 『E.T.』の歴史的大爆死をきっかけとして、アメリカのゲーム市場は1983年から1985年にかけて、縮小の一途をたどりました。これを通称「アタリショック」と呼びます。(p.121-122)

 本書のアタリショック観は、サードパーティーの大量参入とゲームソフトの粗製乱造が既に生じている中で、アタリ社が『E.T.』のゲーム化を企画し、それが市場崩壊の主要因になったとのストーリーになっている。残念ながら、この誤認識も『それは「ポン」から始まった』に基づいたものと思われる。

 これ〔アタリショック:引用者注〕については、「VCS」市場で40社以上あったゲームソフトメーカーが、自由に「VCS」用ゲームソフトを製造した結果、粗製乱造に陥り、それが市場を崩壊させたからだ、と一般に言われている。(中略) だが真相は、すでに市場が一杯なのに、アタリ社がスチーブン・スピルバーグの映画「E.T.」に基づき、許諾を受けて鳴り物入りで82年12月に発売したゲームソフト「E.T.」の内容があまりにもひどく、それを見た一般消費者に見限られたことにあった。
(『それは「ポン」から始まった』 p.180-181)

 『E.T.』のゲーム化の正しい経緯は前述の通りであるが、新規参入メーカーに関する記述も端的に言って事実誤認だ。以下、アタリVCSのサードパーティーの参入時期について概説する。

 まず1979年に史上初のサードパーティーとなるアクティビジョンが誕生し、翌1980年よりVCS対応ゲームソフトの販売を開始した。これに対してアタリはすぐさま訴訟を提起し、同社がVCSにソフトを供給することは不当であると訴えた。しかしVCSには、外部会社を排除可能な法的あるいは技術的な防護措置が施されていなかったため1982年に法廷外和解。アクティビジョンは引き続きVCSソフトを販売できることとなり、サードパーティーの正当性が示される結果となった。
 ただし両社が法廷闘争を繰り広げている最中にも、目ざとい者はすでに動いていた。1981年末にゲームズ・バイ・アポロ、1982年春にイマジックとU.S. ゲームズがVCSへ参入。以後、1982年中頃から1984年にかけて、アタリVCSに参入したサードパーティーは40社以上を数えることとなる。

 ……ここまでの文章を読んで勘の良い方はすでにお気づきの通り、実は『E.T.』のゲーム化企画が立ち上がった1982年前半の時点でサードパーティーの数はまだ数社に留まる。実際に、新規参入メーカーからできの悪いソフトが大量に発売される状況となったのは1982年の後半以降の話なのだ。
 つまり、サードパーティーの大量参入とゲームソフトの粗製乱造が既に生じていた中で『E.T.』が企画されたとする本書の記述は、事実関係を完全に間違えているのである。


(7)アタリは倒産したのか?
 この大打撃によって、アタリ社の経営は一気に逼迫し、数年後、とうとう倒産してしまいます。(p.121)

 アタリは、1984年に家庭用部門がコモドール創設者のジャック・トラミエルに、1985年に業務用部門がナムコに売却されたので、“倒産”との表現は誤りである。
 ちなみに、アタリが分割売却されたことは『それは「ポン」から始まった』にも正しく記されている。(同書 p.334-336)


(8)スピルバーグとゲーム版『E.T.』
 世界的映画監督、スティーブン・スピルバーグは、自作『E.T.』のゲーム化をアタリ社が希望した際、「それは『パックマン』のように面白いのか?」と担当者に聞いたくらいです。さらに、できあがった試作品に対しても「もっと『パックマン』のようにできないのか?」と詰め寄りました。よっぽど『パックマン』が好きだったのでしょうね。(p.100)

 アーケード版『パックマン』の項で紹介されている『E.T.』のエピソードであるが、典拠不明な記述であるため併せて取り上げる。

 『E.T.』の作者のH.S.ウォーショウによれば、スピルバーグとは直接のやり取りが二度あったと証言している。
 まず、ウォーショウは『E.T.』を開発するにあたり、スピルバーグにゲーム内容のプレゼンテーションを行っている。その際にスピルバーグが発した言葉は「Couldn’t you do something more like Pacman?(もっと『パックマン』のようなゲームにできないだろうか?)」であったとされる。補足すると、このcouldn’t you~という言い回しは、極めて控え目な提案の言葉だ。
 ちなみにウォーショウはこれに対して、「『E.T.』が画期的な映画であるように、ゲームも画期的でなければならない」と応じてスピルバーグの要望をかわした。切実な問題として、『E.T.』のゲームデザインをやり直す時間が惜しかったからだ。

 次に二人が顔を合わせたのは、完成した『E.T.』(“試作品”は誤り)を発売前に確認するためにスピルバーグがアタリ本社を訪れた時であった。スピルバーグは実際に『E.T.』をプレイし、「It looks good. Let’s go with it. (よさそうだね。これで行こう。)」と肯定的な言葉を述べたとのことだ。
 以上のように、本書の記述は当事者の証言とかけ離れており、著者の脚色が大いに疑われる内容となっている。

以上

(主要参考文献)
・『The Ultimate History of Video Games』 Steven L. Kent (2001年)
・『Atari Inc: Business Is Fun』  Marty Goldberg, Curt Vendel (2012年)
・『Once Upon Atari: How I made history by killing an industry』  Howard Scott Warshaw (2020年)

(2023/4/30) 誤字、その他一部の文章表現を修正。
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