アタリVCSの苦戦と起死回生
アタリVCSがそれまでの一般的なテレビゲームと違っていたのは、ハードにあらかじめ決められた数種類のゲームが内蔵されているのではなく、別売りのロムカートリッジ(注:中にゲームの基板が入っているカセット状のもの。「ロムカセット」とも呼ばれる)によってゲームを供給する仕組みだったことです。(中略)
ところが、アタリVCSは売れませんでした。原因は、当時市場に競合ハードが多く存在し、ユーザーがどのハードを買えばいいか迷ってしまったことです。(p.116)
アタリ社「VCS」は77年10月に、画期的なシステムと、家庭用初のジョイスティックを付けて発売されたが、当初はまったく振るわなかった。あまり多くの機種が出揃ったため、市場が拒否反応を起こしたのだ。
(『それは「ポン」から始まった』 p.167)
ブッシュネルが抜けたアタリ社は、以前ほどヒッピー的な自由さがなくなったといいます。居心地の悪くなったハッカー精神を持つ社員たちは、歯が欠けるようにポロポロと辞めていきました。
一方、アタリ社に残った人たちが考えたのは、頑張って新しく面白いゲームを開発すること……ではなく、すでにヒットしている他社のゲームをお金を出して引っ張ってきて、アタリVCS用のゲームソフトとして出し直す(これを「移植する」といいます)という方法でした。
なんという安直な考え方でしょうか。このころになると、アタリ社のハッキング精神はかなり薄れてしまっていたのです。(p.117-118)
そこで「移植ソフト」として白羽の矢が立ったのは、日本のタイトーが1978年に発売して大ヒットを飛ばし、アメリカでも大ブレイクしていた『スペースインベーダー』でした。アタリ社は、同作のアタリVCS移植版を1980年に発売。すると、「あの『スペースインベーダー』が家でもプレイできる!」という触れ込みにユーザーは飛びつき、アタリVCSは売り上げを急激に伸ばします。
その後、ナムコの『パックマン』も移植され、アタリVCSはますます売れ行きを伸ばしました。なんと、日本人の作った2本のゲームが、アタリVCSを救ったのです。(p.118)
「VCS」用『パックマン』(82年3月)は、これも業務用と似て非なる絵柄にもかかわらず、業務用がヒットしていたので、1200万個以上も売れ、アタリ社に莫大な利益をもたらすことになったからである。
(『それは「ポン」から始まった』 p.176)
一方、アタリ社を離れたハッカーたちは1979年、アクティビジョン社という会社を設立します。同社は世界初の「ゲームソフト開発の専業会社」でした。(p.118-119)
『E.T.』が招いたアタリショック
1982年6月、全米で『E.T.』という映画が公開されました。監督は、当時立て続けにヒットを飛ばしていた俊英スティーブン・スピルバーグで、全米での興行収入はなんと3億ドル。これは、当時の映画史上最高の成績でした。“超”が3つくらいつく大ヒットです。
それに目をつけたアタリ社の経営陣は、「『E.T.』のゲームを作れば売れるに違いない!」と考えます。 しかし問題はスケジュールです。映画のヒットを受けてゲーム化権(注:それを題材にしてゲームを作ってもよい、という許可)の取得に走ったアタリ側でしたが、1982年のクリスマス商戦に発売を間に合わせるためには、その年の9月1日までにゲームを完成させなければなりません。ただでさえ時間がないのに、ゲーム化権の交渉に時間がかかってしまったため、制作に充てられる期間はたった5週間しか残りませんでした。(p.119-120)
ただ、『E.T.』以前から、アタリ社も含めたアメリカの家庭用テレビゲーム業界には、危険な前触れがありました。ゲーム市場が短時間で急激に拡大した結果、ゲームを開発したことのないメーカーが「ゲームビジネスは儲かりそうだ」とばかりに次から次へと参入し、できの悪いソフトが大量に発売されていたからです。
結果、高いお金を出してゲームソフトを買ったはいいが、クソゲーをつかまされたユーザーが警戒心を強め、以前ほどはゲームソフトを買わなくなってしまう――という現象が起こっていました。 そんな状況に、アタリ社は焦ったのでしょう。ここらで一発、話題になるソフトをドカンと投入して市場を盛り上げなければ――と。しかし、その試みは失敗したわけです。
『E.T.』の歴史的大爆死をきっかけとして、アメリカのゲーム市場は1983年から1985年にかけて、縮小の一途をたどりました。これを通称「アタリショック」と呼びます。(p.121-122)
これ〔アタリショック:引用者注〕については、「VCS」市場で40社以上あったゲームソフトメーカーが、自由に「VCS」用ゲームソフトを製造した結果、粗製乱造に陥り、それが市場を崩壊させたからだ、と一般に言われている。(中略) だが真相は、すでに市場が一杯なのに、アタリ社がスチーブン・スピルバーグの映画「E.T.」に基づき、許諾を受けて鳴り物入りで82年12月に発売したゲームソフト「E.T.」の内容があまりにもひどく、それを見た一般消費者に見限られたことにあった。
(『それは「ポン」から始まった』 p.180-181)
この大打撃によって、アタリ社の経営は一気に逼迫し、数年後、とうとう倒産してしまいます。(p.121)
世界的映画監督、スティーブン・スピルバーグは、自作『E.T.』のゲーム化をアタリ社が希望した際、「それは『パックマン』のように面白いのか?」と担当者に聞いたくらいです。さらに、できあがった試作品に対しても「もっと『パックマン』のようにできないのか?」と詰め寄りました。よっぽど『パックマン』が好きだったのでしょうね。(p.100)
歴史とは、人・事件・世界のありようの時間的変化のことですが、その変化には全て“理由”があります。
ゲームの歴史でいうなら、それまでに見たこともなかったゲームが登場したことにも、あるゲームが爆発的に売れたことにも、ちゃんと理由がある。何かが起こったことには、必ずその原因がある。これを「因果関係」といいます。 (p.6)
「紅葉狩り用に作った山を、スノーボード場に見立てる」のと同じく、箱庭の本来的な意味を、「制作者の意図を超えて、プレイヤーに高い自由度が与えられている状態」だとするならば、すぐれたゲームはそれよりずっと昔から「ハッキング行為が生まれやすい箱庭的な性質」を持っていました。 (p.17)
例えば、Aボタンを押してマリオをジャンプさせた後も、十字(方向)キーを右や左に押せば、空中でマリオを操作できたのです。(中略)『スーパーマリオブラザーズ』は、右へ右へ単一方向にしか横スクロールしないアクションゲームでしたが、キャラクターを操る際には、ものすごく高い「自由度」が用意されていたのです。 (p.18-19)
私たちはこの本を、ゲームクリエイター志望者や、ゲーム業界で働きたい人向けに書きました。 (p.5)
「現実を無視することはできるが、現実を無視した結果を無視することはできない」
Once Upon Atari: How I made history by killing an industry
「アタリショック」という言葉そのものは米国最大の玩具小売業者トイザらスの副社長だったハワード・ムーア(Howard Moore、発言時は同社役員)の発言として1990年の『日経エレクトロニクス』に初めて登場した。
〇アタリショック - Wikipedia (更新日:2022年10月8日 (土) 06:44)
米国では日本よりも数年早く、1970年代末からビデオ・ゲーム市場が立ち上がった。そして、1982年に一気にピークに達し、1983年に急激に階段を転げ落ちる。米Atari Corp.が60%程度と最大のシェアを誇っていたので、1983年に始まるビデオ・ゲーム不況は、「アタリ・ショック」と呼ばれている。(p. 150)
私は任天堂アメリカの参入を歓迎していた。1985年当時、確かに米国のビデオ・ゲーム市場は壊滅状態にあった。ただし、完全になくなったわけでもなかった。業界全体では1年間の売り上げは約1億ドル。そのうちの50~60%は当社の売り上げだった。そして、米国の消費者がいまだに面白いゲーム・ソフトをほしがっていることを、小売業者として肌で感じ取っていた。
ただし、アタリ・ショックで疲弊した米国メーカーには、良いゲーム・ソフトを出す余力がなかった。日本で成功を収めていた任天堂にとって、まさに絶好のタイミングだったわけだ。(中略)
ライセンス契約によるゲーム・ソフトの管理が任天堂アメリカの成功につながった。法律上の観点からはコメントできないが、ビデオ・ゲーム市場の繫栄を維持するには、この基本方針だけは絶対に守らなければならない。だれでも好きなだけNES用のカートリッジを開発・製造できるようになったら、1983年のアタリ・ショックを繰り返すことになろう。(p.153)
『新・電子立国』の放送以前に「アタリショック」という言葉を確認できる例としては、1990年の『日経エレクトロニクス』を挙げることができる。当該誌の記事本文およびトイザらス元副社長のハワード・ムーア氏の証言の中で「アタリショック」との言葉が使用されている。
※「初めて登場した」との表現を使わない。
※ムーア氏の証言に加えて、記事本文で使用されていることを示す。
「LSIショック」や「任天堂ショック」でもそうだが、本当に取材先の人間がそう言ったのかは疑問で、説明すると長くなる事象を一言で表現するキャッチーな用語として日本のマスコミ自体が作り出した可能性が高いと思う。「アタリ・ショック」もそうしたマスコミ用語の一つである可能性が高いと筆者は考える。(同書 p.243)
私は"A"を図案化しようと思い、当時のビッグネームであった『ポン』に目をつけた。『ポン』には中心線と、左右から中心に当たり続ける力(ボール)がある。それ(力)が中心を外側に曲げると思いついた。それが私のデザインしたものだ。
オッパーマンにはお気に入りのゲームデザインがあるかもしれないが、彼が最も言及されるデザインは、悪名高いアタリのロゴ*3だろう。このデザインに込められた意味に関して、これまでに相反する報告がなされてきた。様々な説(そのいくつか、または全てはオッパーマン自身が流したものである)が飛び交っているのだ。
●日本語の文字である。
●アタリの3つの事業部を3本線で表現している(ただしシンボル制作当時のアタリは1事業部だった)。
●日本のゲームの囲碁に由来する。
●富士山を表している。
●上記のいずれも違う
極めて理にかなった話に聞こえる。そう信じたい。商売人なら、こんなお遊びみたいな作り話を想像することに時間を費やしたりしないだろう。しかし芸術家なら、そうするかもしれない。
Art Of Atari (English Edition)
ロードランナーがMSXになった
アメリカ「エレクトロニック・ゲーム」誌で、'83年年間最優秀賞。ゲームの本場、アメリカでも、今やだんぜんNO.1の大人気だ。
パソコンゲームの本場、アメリカでもっとも人気があり、評価の高いのがこの「ロードランナー」。'83年最人気プログラム賞、'84年アーケード大賞など、数多くの栄光に輝いてきた。
(前略)NOAが返品など様々な仮定をして、市場規模を算出してもアタリ側からの抗弁を受け、無駄に争点が増え時間がかかるし、陪審員の心象も悪くなる可能性がある。
そうであれば、アタリ・コープとアタリ・ゲームズの抗弁を引き出しようがないように市場規模を最大に見積もり、崩壊時期もできるだけ遅くに設定した方がよいことになる。NOAが裁判で立証すべきことは、遅くともNESの発売を開始した85年までに崩壊していたことを証明できればいいのであって、結局どの統計によっても85年に市場規模はゼロに近くなるのだから、極論すればNOAにとって正確な崩壊の時期などどうでもよいのだ。
また、市場崩壊時期を最大限先延ばしして算出することはNESの発売によって急激な市場崩壊からV字回復させたことを陪審員に印象付ける効果がある。
(p234)
(1)アタリ周辺だけに責任を押しつけるような「アタリショック」史観がいつ生まれたのかを解くカギは「アタリショック」という言葉そのものにあるが、誰が言い出したのかはわからない。
(2)そもそも「ファミコンが上陸するまで、北米市場全体が壊滅状態にあった」という歴史認識そのものが定着していなかった。
(3)「アタリショック」という言葉の誕生と同じ頃に、何者かがヴィデオゲーム市場の過去を、歴史観が覆るほど綿密に洗い直した。それがアタリ叩きを目的としたものだったのか、それとも結果的にそうなったのかはわからないが、この時期に、アタリと敵対し、その過去を糾弾しようとしていた企業が任天堂だった。
「アタリの教訓」は独占支配のための創作だった?
任天堂はサードパーティとライセンス契約を結ぶ理由を、「アタリショックの教訓」に関連づけて説明する。
アタリショックを繰り返すな、を合言葉に、任天堂はこれまで市場コントロールの正当性を主張してきたのである。
歴史は繰り返すという。だが、過去の歴史がそのまま繰り返された例はない。むしろ過去の失敗を教訓に、思い切った政策変更や体質変換ができないばかりに衰退していった国家や企業も少なくない。
任天堂の市場コントロールの目的は、ほんとうにアタリショックの失敗を繰り返さないためだけだろうか。
現代の日本では、アタリが大ヒットを飛ばした時代のアメリカと比べると、子供の情報量は格段に増加している。12~13歳で麻薬中毒になる子供がいる米国と、せいぜい登校拒否が社会問題になる日本、あるいは国民の4人に1人が英語で読み書きができない米国と、どんな離島でも衛星放送で都心と同時に同じ情報を入手できる日本とでは、子供を取り巻く環境も違う。
テレビゲームに対するものの見方や受け止め方も、米国とは比較にならない。裏ワザ情報などの口コミの伝達速度の速さなどは、驚くばかりだ。
そういう情報に敏感な子供たちに、アタリショックをそのまま当てはめること自体、ユーザーをバカにしていることになりはしないか。仮に駄作ゲームが市場にあふれたとしても、子供たちはすでにそういう判断力を備え、子供同士の口コミネットワークでたちまちのうちに市場から排除されるにちがいない。
第一、いくら任天堂がソフトのタイトル数を規制しても、ファミコン用のソフトメーカーだけで97社となった今日、その氾濫を押えることは有名無実になってしまったのだ。
「ライセンス契約を求めてくるソフトメーカーに対し、契約を拒否したり、ゲームソフトを作るなとは言えない」
今西氏はそう言うが、ほんとうにゲームソフトの氾濫を押えるつもりなら方法はいくらでもある。任天堂自身、単なる私企業だ。国家機関でもなければ公共企業体でもない。私企業の契約は当人同士の随意なのだ。そうである以上、ライセンス契約を拒否することもできる。ライセンス契約を乱発しておいて、いまさら「ゲームソフトの氾濫を押えるため」という言い分は筋が通らない。
(高橋, p164-166)
アタリショックと任天堂: 「アタリショックは任天堂の捏造」という捏造
「アタリの教訓」は独占支配のための創作だった?
任天堂はサードパーティとライセンス契約を結ぶ理由を、「アタリショックの教訓」に関連づけて説明する。
アタリショックを繰り返すな、を合言葉に、任天堂はこれまで市場コントロールの正当性を主張してきたのである。
(高橋, p164-165)
任天堂の市場コントロールが話題になるとき、いつも引き合いに出される「アタリショック」。これは米国の経済学の授業で必ず取り上げられる実話だ。
アップルやコモドールと同じくベンチャーとして始まったアタリ社は、アーケードマシンの開発を経て77年に「アタリVCS(ビデオコンピュータシステム)」を家庭向けに発売。81年までに1200万台(全米世帯数の15パーセント)、約五千億円の売り上げを記録する。だが、この年を境にしてアタリVCSとそのゲーム市場は「消滅」する。
開発力のないサードパーティが多数参入したこと、アタリ社の古い経営体質に嫌気がさしたプログラマーが次々とスピンアウト(退職・独立)し、アタリ自身も開発力が低下したためだ。
(高橋, p83)*注2
「アタリの教訓」は独占支配のための創作だった?
任天堂はサードパーティとライセンス契約を結ぶ理由を、「アタリショックの教訓」に関連づけて説明する。
アタリショックを繰り返すな、を合言葉に、任天堂はこれまで市場コントロールの正当性を主張してきたのである。
歴史は繰り返すという。だが、過去の歴史がそのまま繰り返された例はない。むしろ過去の失敗を教訓に、思い切った政策変更や体質変換ができないばかりに衰退していった国家や企業も少なくない。
任天堂の市場コントロールの目的は、ほんとうにアタリショックの失敗を繰り返さないためだけだろうか。
(高橋, p164-165)
(中略)
第一、いくら任天堂がソフトのタイトル数を規制しても、ファミコン用のソフトメーカーだけで97社となった今日、その氾濫を押えることは有名無実になってしまったのだ。
「ライセンス契約を求めてくるソフトメーカーに対し、契約を拒否したり、ゲームソフトを作るなとは言えない」
今西氏*注3はそう言うが、ほんとうにゲームソフトの氾濫を押えるつもりなら方法はいくらでもある。任天堂自身、単なる私企業だ。国家機関でもなければ公共企業体でもない。私企業の契約は当人同士の随意なのだ。そうである以上、ライセンス契約を拒否することもできる。ライセンス契約を乱発しておいて、いまさら「ゲームソフトの氾濫を押えるため」という言い分は筋が通らない。
(高橋, p166)
「アタリ・ショック」などなかったという説は交通事故で当事者や目撃者が一致しているのに、それ以外の人物が当事者の主張を無視して、ウワサ話程度の情報から事故などなかったと主張しているようなものである。(p226-227)
○プレイヤーの目的は勇者を操作し、ドラゴンを倒して宿屋へと帰還すること。
○本作はターン制を採用している。ただし無操作でもターンは進行するため、実際はリアルタイム制のアクションゲームと同等のプレイ感となる。
○勇者は近接武器の剣と遠隔武器の弓矢(初期状態では12発を所有)を切り替えることができる。
○モンスターを倒すことで経験値を、またダンジョン内の宝箱から金を獲得できる。
○冒険の途中に宿屋へ戻ると体力が全回復する。また、十分な経験値を獲得していた場合はレベルアップし勇者の能力値が上昇する。
○さらに宿屋では、金を消費することで体力の最大値の増加や弓矢の補充を行うことができる。
○勇者は鳥に変化する魔法(時間制限あり)を使用できる。敵や地形を飛び越えることはできないが、移動速度が2倍となるため逃走手段として有効。
○プレイヤーの目的はピラミッドの中を探索し、壺と4つの宝石を保管庫に安置すること。
○ピラミッドの中には至るところに棺桶が置かれており、鍵を使用することで開封できる。
○棺桶の中からは、ミイラまたはアイテムが出現する。
○ミイラは敵であり、接触するとミスになる。
○プレイヤーの助けとなるアイテムとして、ミイラを追い払う指輪、ミイラを滅ぼすことができるキラーストーン、他のアイテムを引き寄せる磁石が存在する。
○お邪魔キャラとしてゴーストが登場する。プレイヤーの所持状態であるか否かにかかわらず、ゴーストは接触したアイテムを奪い去る。
○宝物を探し出し、所定の場所へと持ち帰ることがゲームの目的。
○ゲーム開始時の初期状態では、自キャラは武器をもっておらず攻撃能力がない。
○原則として、アイテムは一度に一つしか所持できない。
○アイテムを奪い去るお邪魔キャラが存在する。(『アドベンチャー』のコウモリ、『Copts and Robbers』と『ドラゴンスレイヤー』のゴースト)
<ドンキーコング>の法的な保護策がととのうと、リンカーン(引用者注:NOAの顧問弁護士)は1981年におこなわれたコレコとの交渉で荒川(引用者注:NOA社長)を補佐した。彼は法定書式集を参考にして契約書を用意した。それに目を通した荒川は、任天堂がゲームにかかわる如何なる権利をも所有する旨、保証しなければならないとあるが、これはどうしてかと訊いた。リンカーンの説明によると、どうしたもこうしたもない、そうしなければならないと言う。(中略)
結局、リンカーンと荒川は所有権の保証は一切しないということで合意し、契約書にコレコが全てのリスクを負うとの言葉を入れた。
よべばこたえる兄弟愛
博士号をもつ兄とスウィーフィー教の回転踊りに夢中の弟との大冒険。口笛を吹いて注意散漫な兄をすくう弟。落石、蛙、ミイラと次々に襲いかかる危険を逃れて兄弟が見たものは、はたして…