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Atari VCS (2) ― 未来への遺産 [レビュー]

Atari VCS (1) ― その誇り高き血統

(承前)

 1981年から1982年にかけて、アメリカの家庭用ビデオゲーム市場は黄金期を迎えていた。その主役を演じたのは無論、アタリ社のVCSである。前述の『スペースインベーダー』に加え、『アステロイド』『ミサイルコマンド』『Yars' Revenge(ヤーの復讐)』などのヒット作を輩出。実に市場シェアの80%をアタリ社が握っていた。

vcs_ad_1982dec.jpg VCS躍進の背景には、TIAが設計上の想定を超えたグラフィック性能を発揮していた点が大きい。例えば、元々プレイヤー・オブジェクトは2枚しか表示できないはずであったが、合計6枚まで複製表示可能であることが後に判明した。あるいは『パックマン』や『ディフェンダー』では、オブジェクトを点滅させることにより、擬似的に表示枚数を増やす「フリッカー」と呼ばれるテクニックが導入されている。加えて81年には、バンク切り替えによりROM容量が8キロバイトに拡張されたカートリッジが登場し、VCSゲームの質的向上に寄与している。

 ただしアタリ社にとって皮肉なことに、サードパーティのアクティビジョンが発売したゲームが好評を博していたこともVCSブームの後押しとなった。実はアクティビジョンが設立されるとすぐに、アタリ社は法的措置に訴えている。しかし、VCSが誕生した70年代後半の時点で、プラットフォームホルダー以外の会社からソフトが供給されることは全く想定されていなかった。そのため、VCS本体には法的あるいは技術的な防護措置が施されておらず、サードパーティを排除することは不可能であったのだ。

 82年に、アタリとアクティビジョンは法廷外和解に至る。その際に取り交わされた条件は、アクティビジョンがVCS対応ゲームソフトを販売することを認める代わりに、パッケージに"Atari Video Computer System"の商標を明示すること、そしてカートリッジの販売数に応じてロイヤリティをアタリに支払うことであった。

 両社の裁判を通じて、VCSに外部会社がソフトを販売できるという事実は衆目の知るところとなる。アクティビジョンに続いて、1981年にはアタリ出身者を中心メンバーとするイマジックが設立された。玩具メーカーのマテルやパーカーブラザーズ、アポロやデータエイジに代表される新興メーカー、さらには20世紀FOXやCBSといったメディア企業までもがVCSソフトの供給を始めた。1981年から1984年にかけてVCSに参入したサードパーティは実に30社以上を数える。

 1982年、アメリカの家庭用ビデオゲームの市場規模は30億ドルに達し、数字上は過去最大の売上高を記録する。消費者の需要に応えるべく、デパート、玩具店、ディスカウントストア、果てはレコード店や書店、ガソリンスタンドと、アメリカのありとあらゆる場所でVCSソフトは販売されていた。
 ――そして1983年、いわゆる「アタリショック」と呼ばれる市場崩壊が訪れるのである。

 1983年から1985年にかけてアメリカの家庭用ビデオゲーム市場は急激に縮小する。83年初頭の時点で前年比50%以上の成長を予想していた市場関係者の期待もむなしく、同年の売上高は約20億ドルへと減少。その後も低落を食い止めることはできず、ついに85年に市場規模は1億ドル以下にまで落ち込む。

 実は市場崩壊の兆候は、それ以前から存在した。1982年12月8日、ワーナー・コミュニケーションズはアタリ社の第4四半期の業績予想を下方修正することを発表。翌12月9日、ニューヨーク証券取引所においてワーナーの株価は前日終値より16.75ポイントも急落。その影響はワーナーに留まらず、ビデオゲーム関連銘柄を中心に広範囲の株価下落を引き起こした。 

 では、市場崩壊においてVCSはどのような役割を果たしたのであろうか?
 我が国の「アタリショック」という呼称が端的に示すように、83年のゲーム市場崩壊はアタリ社およびVCSに責任ありとする論調は昔から根強い。曰く、「『パックマン』や『E.T』が酷いゲームであった」「VCSに多数のサードパーティが参入し、市場が飽和状態に陥った」「アタリ社が放漫経営を行っていた」。

 確かに、アタリ社より82年に発売されたVCS対応ソフトの『パックマン』と『E.T』の出来が悪かった上に、需要を遥かに超える数のカートリッジを製造したことは、同社に損失をもたらした原因の一つと言える。またサードパーティが大量参入したことにより、VCSソフトの価格が値崩れを起こしていたことも事実だ。「業界最大手の企業がリーダーシップを放棄しただけじゃなく、業界そのものを潰したなんて前代未聞だ」――アタリ創設者のノーラン・ブッシュネルは、当時を振り返りこのようにアタリ社を批判している。
 しかし、ことはそう単純では無いと筆者は考える。

VCS年別タイトル数.jpg

 ここで一つ、興味深い資料を提示する。上の表は、VCSの年別発売タイトル数をアタリ社、アタリ社以外で集計したものである。実はアタリ社、サードパーティ共に最も多くのVCSソフトを発売したのは、市場崩壊の年に相当する1983年なのだ。当時、すでにVCSよりも性能で勝る家庭用ゲーム機として、マテル社のインテリビジョン(80年)やコレコ社のコレコビジョン(82年)が登場し、VCSと市場シェアを競っていた。また、これに対抗するためアタリ社自身、82年にVCSの後継機となるAtari 5200を発売していたにもかかわらず、である。

 VCSの不幸は、発売より6年が過ぎ性能的に限界を迎えてもなお、家庭用ビデオゲーム市場の担い手たる立場を背負わされてしまったことにあるのではないか?筆者には、そのように思えてならない。

 最終的に、アタリ社は1983年全体で5億3900万ドルもの損失を計上。かつてビデオゲームの代名詞たる存在だったアタリの輝かしい栄光は、もはや見る影も無かった。1984年7月、ワーナー・コミュニケーションズ社は、コモドール創設者のジャック・トラミエルにアタリ社家庭用部門を売却。トラミエルはホームコンピュータ事業を経営の主軸にすることを決定し、家庭用ゲーム部門は大幅に縮小される。アメリカにおいてVCSは、ここで一旦表舞台から消え去ることになる。

 しかし、VCSの歴史はまだ終わったわけではなかった。
 1986年、アタリ社家庭用部門を受け継いだアタリ・コープ(Atari Corp.)は、新たに本体を再設計したVCSを発売。折しも、Nintendo Entertainment Systemと名を変えて北米市場へ進出した任天堂のファミリーコンピュータと相対する形となったが、優良なソフト資産と「50ドル以下」の本体価格をアピールすることで独自の存在感を発揮していた。また、市場崩壊の直接の影響を受けなかった欧州、南米、オセアニアなどの地域においては、90年代前半まで廉価家庭用ゲーム機として一定の地位を築いていた。

 86年のリバイバル以降も含めると、VCSの総販売台数は約3000万台と言われている。本体の製造は1992年を以って終了しているが、実に15年以上もの間、市場に留まり続けた長命な家庭用ゲーム機となった。
 我が国では、1979年のエポック社の輸入販売、1983年のAtari 2800など幾度かにわたって市場進出が試みられるも、遂に定着することの無かったVCSであるが、本稿を通じてその偉大な足跡(そくせき)を感じ取っていただければ筆者としては幸いである。

 …そして2013年の今も尚、全世界のアマチュアプログラマーたちの手によってVCS向けのHomebrewソフトの開発が行われている。
 VCSの歴史は、いまだ続いているのだ。

(了)




(動画) 1986年に放送されたVCSのTVコマーシャル

図表の出典
●WHY ATARI IS #1. ―― 『VIDEO GAMES』誌82年12月号に掲載されたVCSの広告
●VCS対応ゲームソフトの年別発売タイトル数推移 ―― 『Classic Home Video Games, 1972 - 1984: A Complete Reference Guide』 を基に筆者作成


(本稿は、2012年に頒布した同人誌『わかる!ATARI2600 発掘編』にて発表した文章に加筆・修正を加えたものである)
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