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アタリ社がファミコンを販売していたかもしれないゲーム史 [レビュー]

 「金のなる木を売り渡そうとしたなんて信じられますか?あのときファミコンをアタリに売っていたら、任天堂の名前が海外で知られることもなかったでしょう」

―― ニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)の代表を務めた荒川實の回想[1]



 1983年、任天堂とアタリ社の間でファミリーコンピュータの海外販売権を巡って許諾交渉が行われました。
 これはデヴィッド・シェフ著『ゲーム・オーバー』にて広く知られるようになった事実であり、先日に出版された『ファミコンとその時代』においてもファミコンの海外展開を論じた文章の中で参考文献として提示されています。

 ただし『ゲーム・オーバー』の記述は、もっぱら交渉に立ち会った人物の描写(おそらくかなり脚色が加えられている)に重点を置いています。肝心の交渉内容については、アタリ社に“日本以外での販売権を認め”、“極めて低いコストでファミコンを製造させようとしていた”[2]などと記されているものの、詳細な取引条件が示されているとは言いがたい説明でした。(そして後述の通り、アタリに“ファミコンを製造させようとしていた”との表現は不適切です)

 しかし幸いなことに、昨年11月に出版された『Atari Inc.』には、この交渉内容をまとめた当時のアタリ社の内部文書が掲載されています[3]
 以下の文章は、個人的な覚え書きを兼ねて同書の記述を抄訳、抜粋したものです。



 『Atari Inc.』によれば、本件に関して任天堂よりアタリ社へ最初にコンタクトがあったのは1983年4月4日。荒川實(NOA社長)とハワード・リンカーン(NOA法務担当)連名の手紙に、任天堂が最新の家庭用ビデオゲーム機を提供する用意があることが記されていました。数日後、荒川とリンカーンがレイ・カサール(アタリ社CEO)の元を訪れ、このビデオゲーム機(ファミコン)に対する最初の質疑が行われます。

 1983年4月11日。偶然にも、アタリ社の重役たちが別件で極東を訪れていたことにより、京都の任天堂本社でファミコンの性能を実際に目にするための会議が用意されました。任天堂側の出席者は、山内溥(代表取締役)、荒川實、ハワード・リンカーン、竹田玄洋(開発第三部部長)、そして上村雅之(開発第二部部長)の名前が挙げられています。
 ただし、この時点でアタリ社に公開されたのは、TTLエミュレータ上で動作する不完全なバージョンの『ドンキーコングJr.』と『ポパイ』のみ。
 当時、任天堂はいくつかのバグが残ったファースト・パス・シリコン(最初の試作品)しか受け取っておらず、完全に動作するプロトタイプを準備できなかったそうです。

 1983年4月15日。アタリ社内部でファミコンについての検討会が行われます。
 この頃アタリ社は、コードネームでMARIAと呼ばれるグラフィック/サウンド制御チップ*1を新たに開発していたものの、いまだ完成には至っていませんでした。即ち、1983年のホリデーシーズンに市場投入するための新製品候補として、ファミコンとMARIA搭載機の両睨みで任天堂との交渉を進めることが決定されたのです。

 アタリ社より任天堂へ本件に関する協議を継続する意向が伝えられたことにより、1983年5月17日から2~3日の予定で、具体的な契約交渉会議が日本の京都で行われました。
 交渉会議は、まず山内溥氏が任天堂側の要望を表明することで始まったと記されています。その主な内容は次の通り。


■アタリ社は、任天堂より組立・検査済みのファミコン用メインPCB*2を購入し、(アタリ社側でパッケージング作業を行った上で)日本国外で販売する。日本国内は任天堂自身が販売する。
■任天堂が情報を開示するのは、PPU*3とCPUの電気仕様、ファミコン本体の回路図、テスト用プログラム、ROMカートリッジの仕様に限る。
■PPUとCPUのプログラム仕様は公開しない。
■任天堂は、アタリ社が選定したファミコン対応ソフトのプログラミングを行う。組立・検査済み、未ラベル状態のROMカートリッジの単価は1500円(日本での荷渡し価格)。最低発注数量は一タイトルあたり10万本とする。
■アタリ社は、今後の任天堂業務用ゲームを日本国外でファミコン対応ソフトとして販売する「第一優先権」を得る。ただし前項の繰り返しになるが、プログラミングとカートリッジの製造は任天堂が行う。
■ファミコン用メインPCBの価格は5300円以上を見込んでいる。


 見ての通り、極めて任天堂に有利な条件であり、『Atari Inc.』の著者は“いまだかつて締結されたことの無い一方的な許諾契約”と評しています[4]。ただし、その後5月20日まで交渉が行われ、契約内容は次のように変更されました(一部抜粋)。


■任天堂は、チップ製造のためのLSI設計図を除く全てのファミコンに関する情報を開示する。これは、本契約が締結された後に開示するものとする。
■任天堂とアタリは、PPUとCPUデザインの法的な防護について協力する。
■契約締結の際、任天堂は先払い金として500万ドルを受け取る。
■アタリ社は、最低200万台分のファミコン本体用ユニットの購入を保証する。
■本契約の有効期間は4年間とする。
■アタリ社は任天堂の全面協力の元、ファミコン向けのプログラムを作成する権利を与えられる。


 しかし我々が知っている歴史の通り、ファミコンの海外販売権がアタリ社に許諾されることはありませんでした。1983年6月のCESにおいて、アタリ社に許諾していたホームコンピュータ用『ドンキーコング』の移植販売権に問題が発生し交渉は中断。さらに83年7月には、業績不振の責を取る形でレイ・カサールがアタリ社CEOを解任されます。
 83年のホリデーシーズンに間に合わせるためのデッドラインである7月までに契約が締結されなかったことにより、アタリブランドでのファミコン販売は幻となりました。

 その後、1985年末にNintendo Entertainment Systemと名を変えて、任天堂自身がファミコンを北米で発売。80年代末までに年間売上高40億ドルもの巨大市場を築き上げます。記事冒頭に挙げた荒川實氏の言葉の通り、アタリ社にファミコンの海外販売権を許諾しなかったことは、任天堂の運命を大きく変えた分水嶺の一つと言っても過言ではないでしょう。



Atari Inc.: Business Is Fun

Atari Inc.: Business Is Fun

  • 作者: Curt Vendel
  • 出版社/メーカー: Syzygy Press
  • 発売日: 2012/11/25
  • メディア: ペーパーバック

 最後に、繰り返しになりますが、以上はあくまで『Atari Inc.』の一部抜粋であり、訳出していない記述があります。より詳細な交渉内容に興味を持たれた方はぜひとも同書をご確認ください。


(関連記事)
書籍『ファミコンとその時代』への疑問点 (アタリ社家庭用ゲーム機関連)
ファミコンが存在しなかったかもしれないゲーム史

【 脚注 】
*1 正確には、チップ開発を行なっていたのはGCC(General Computer Corp.)という名の外部会社。尚、このMARIAは後にAtari 7800に搭載された。
*2 PCB プリント基板(Printed Circuit Board)の略。
*3 PPU  Picture Processing Unitの略。ファミコンの画像処理装置。

【 出典 】
[1] 『ゲーム・オーバー』 デヴィッド・シェフ (1993年) p.158
[2] 同上 p.155
[3] 『Atari Inc. - Business Is Fun』 Curt Vendel, Marty Goldberg (2012) p.679-682
[4] 同上 p.644
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