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Atari VCS (1) ― その誇り高き血統 [レビュー]

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Atari 2600 Consoles and Clones (Atari Age)

■Atari VCS - CX2600 Sunnyvale Edition
1977年に発売された「オリジナル」のVCS。カリフォルニア州サニーベールで製造された。本体前面に6本のスイッチを配し、後続製造分よりも本体重量が重いことから、VCSファンの間では「ヘビー・シクサー(Heavy Sixer)」との愛称で呼ばれている。



 Atari Video Computer System(以下VCS)はアタリ社が1977年に発売した家庭用ビデオゲーム機である。「世界初のカートリッジ交換型ゲーム機」の座こそフェアチャイルド社のChannel F(76年)に譲るものの、任天堂のファミリーコンピュータ登場以前に最も普及した家庭用ゲーム機として知られる。1982年にVCSはAtari 2600と改称されるが、歴史的経緯を考慮し本稿ではVCSと表記する。

 まずはVCSのハードウェアスペックについて、ごく簡単に解説する。
 VCSのCPUは、MOSテクノロジーの6507(1.19MHz)を搭載。これはMOS 6502の機能を削減したものであり、6502のピン数が40本であったのに対し、6507のピン数は28本となっている。また、グラフィック/サウンド出力用に、Television Interface Adaptor(TIA)と呼ばれるカスタムチップを搭載。解像度160×192、16色表示、サウンド2音。そしてRAMはわずか128バイト。現在の感覚からすると極めて貧弱な性能に思えるが、元々VCSは設計段階で最大4キロバイトのプログラムROMの運用を想定していたに過ぎなかった。*1

 VCSのグラフィック性能についてもう少し具体的に述べると、プレイフィールドと呼ばれる背景画面と、5枚のオブジェクトを表示することができる。前者はいわゆるBG(バックグラウンド)面、後者はスプライトと理解していただければ話が早い。
 5枚のオブジェクトは、1枚のボール・オブジェクト、2枚のミサイル・オブジェクト、2枚のプレイヤー・オブジェクトで構成されている。ボール・オブジェクトとミサイル・オブジェクトは、その名の通りゲーム内でボールやミサイルとして使用される。デザイン変更はできないが1、2、4または8ピクセル幅を選択可(単色)。プレイヤー・オブジェクトは、水平8ピクセル幅で自由にデザイン可能。こちらもやはり単色。オブジェクトの構成を見ての通り、VCSはパドルゲームの『ポン』や対戦STGの『タンク』を家庭用に移植することを目的としたゲーム機であった。

 ここで話は前後するが、VCSを発売したアタリ社についても簡単に触れる。アタリ社は、業務用ビデオゲーム会社として1972年に設立。『ポン』(72年)、『ブレイクアウト』(76年)のヒットで業績を伸ばしていた。また、1975年に家庭用ビデオゲーム市場へと進出。家庭用機に変換した『ポン』は、やはりヒット商品となる。

 ところで最初期の家庭用ゲーム機は、トランジスター回路をIC化したTTLや大規模集積回路のLSIで構成されており、いわばゲームとハードウェアが一体になっている。そのため、新製品を投入する度に専用回路を設計しなければならず、開発・製造費用が負担となる問題を抱えていた。そこで技術者たちは、CPUを搭載した本体とプログラムROMを収めたカートリッジで構成されるマイクロプロセッサー方式の家庭用ビデオゲーム機を新たに模索する。この方式であれば、本体側を更新することなく無限にゲームを供給することが可能だ。*2

 ビデオゲームのトップメーカーとなっていたアタリ社も、カートリッジ交換型ゲーム機の将来性に早い時期から着目していた。ただし同社の財務状況は健全とは言いがたい状況にあった。そこで1976年にアタリ創設者のノーラン・ブッシュネルは、映画会社や音楽会社を傘下に持つコングロマリット(複合企業体)のワーナー・コミュニケーションズ社にアタリ社を売却することを決意。ワーナーから1億ドルの支援を受けることにより、VCSの製造および販売を行う体制を整えたのである。

 1977年10月、満を持してVCSは発売される。型式番号CX2600――勘の良い方にはお気付きの通り、後のAtari 2600という名称はここから採られた。二つのジョイスティックコントローラ、二つのパドルコントローラ、そしてゲームソフトの『コンバット』を同梱。販売価格は199.99ドルで、これは物価上昇を考慮すると現在の757.32ドルに相当する。

 関係者の期待に反して、この年のVCSの販売状況は芳しいものではなかった。最大の理由として、当時は『マテル・フットボール』に代表されるLED表示型の携帯ゲーム機がヒットしていたことが挙げられる。またアタリ社自身、VCSと並行する形で『ビデオ・ピンボール』や『スタントサイクル』といった一体型家庭用ゲーム機の新作を発売しており、必ずしもVCS一本で勝負していたわけでは無かった。

 ともあれ、立ち上がりは低調であったVCSだが、徐々に市場で評価されるようになる。「80年に『スペースインベーダー』が発売されるまでVCSは全く売れず在庫になっていた」との説明をしばしば見かけるがこれは不適切。確かに、1977年に製造した40万台のVCSを同年内に消化できなかったのは事実であるが、翌78年に追加生産を行っている。初期のVCSの販売展開に関しては、75年の家庭用『ポン』を契機にアタリの有力取引先となっていた大手チェーンストアのシアーズが貢献するところが大きい。同社は早くも77年より、VCSをSears Video Arcadeという名の自社ブランドで販売している。

 この時期のVCSの正確な販売台数推移は不明だが、1979年までに80万台以上を販売していたようである。現に、79年10月にはアタリの元開発者たちが史上初のサードパーティ・パブリッシャーとなるアクティビジョンを設立する。彼らに独立を決断させる程度に、VCSは既に市場シェアを獲得していたわけだ。ただし、『スペースインベーダー』がVCSの人気を牽引する初のキラーソフトとなったことは紛れも無い事実と言える。そして、発売より3年以上が経過した1981年に入り、いよいよVCSの驚異的なブームが始まるのである。*3

(続く)
⇒○Atari VCS (2) ― 未来への遺産



(脚注)

*1 VCSのカートリッジコネクターは24ピンであるが、仮にMOS 6502と30ピンのカートリッジコネクターを採用していれば、最大64Kのアドレス空間をサポートすることが可能であった。

*2 ちなみにChannel F(76年)以外にも、RCA社のStudio II(77年)、マグナボックス社のOdyssey2(アメリカでの発売は79年)などのカートリッジ交換型家庭用ゲーム機がVCSと前後する形で登場している。

*3 脚注にあるまじき長さだが、書く。
 1978年12月、ノーラン・ブッシュネルはアタリ社の役員を解任された。ブッシュネル解任の理由については、親会社のワーナーとの経営方針の不一致が原因であり、とりわけVCS事業に対して両者の意見は大きく衝突していた、と言われている。

 ただしこの件について、関係者の証言が食い違っているのはあまり知られていないようである。ワーナー社副社長のマニー・ジェラルドによれば、ブッシュネルはVCSの在庫を処分価格で売り払い、これ以上の販売継続は中止すべきであると主張したと伝えられる。しかし当のブッシュネル自身は、あくまでVCS本体の価格を値下げすることにより市場シェアの拡大を後押しすべきだと考えていたと証言している。(『The Ultimate History of Video Games』 Steven L. Kent, p.111)
 真相は藪の中であり、両者どちらの言い分が正しいのかは判断できない。いずれにしても確かなのは、カートリッジ交換型の家庭用ゲーム機ビジネスにおいて短期的な成果を求めるのは間違いで、中長期的な視野に立った販売戦略が重要であるという点だ。現代に住む我々は、そのことをよく知っている。

 結果的に、ワーナー側の意向によりVCS事業は継続される。仮に1978年の時点で安易にVCSの値下げを行っていた場合、その後の家庭用ゲーム市場はどうなっていたであろうか?歴史のIFを問うことは無意味であるかもしれないが、個人的には興味を惹かれる話である。とはいえ、VCSが発売より5年が経過した1982年にその最盛期を迎えることは、ブッシュネルやジェラルドも含めて当時の誰しも予想していなかったことは間違いないであろう。


(本稿は、2012年に頒布した同人誌『わかる!ATARI2600 発掘編』にて発表した文章に加筆・修正を加えたものである)
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