ドンキーコング発見伝 [レトロゲーム]
それは日本の任天堂本社で、別の階にあるトイレへと向かっていたときのことだった。 私は通りがかりに目にしたゲームに興味を持ち、任天堂のスタッフによく見せて欲しいと頼んだ。 私はすぐに、そのゲームの権利を手に入れるべきだと思った。任天堂の要求は、たしかカートリッジあたり1ドルか2ドルを支払うことであったと記憶している。当時としては大きな取引だ。しかし同時に、任天堂は24時間以内に前金として20万ドルを振り込むことを要求してきた。 私はアメリカが朝の7時になるまで待ち、社長のアーノルド・グリーンバーグを電話で呼び出した。 私はこう言った。「アーノルド、落ち着いて聞いて欲しい。今までに見たことがないような最高のゲームを見つけたんだ。契約条件もリーズナブルで、カートリッジあたり1~2ドルでいい。ただ、彼らは前金で20万ドルが欲しいと言ってるんだ」 私は受話器を耳元から遠ざけ、社長の金切り声が止むのを待った。 そしてようやく、彼はこう尋ねてきた。「そのゲームの名前はなんというんだ?」 「ドンキーコングだよ」と私は答えた。 ―――コレコ社のゲーム開発責任者を務めたエリック・ブロムレイの回想 |
任天堂が1981年に業務用ビデオゲームとしてリリースした「ドンキーコング」。今さら説明の必要も無いほど有名な古典的タイトルです。
宮本茂が初めてゲームデザイナーとして携わった作品。ジャンプ・アクションゲームの雛形。そしてマリオのデビュー作でもあります。
そんな「ドンキーコング」ですが完成直後の段階では、当の任天堂社内ですら評価が定まっていませんでした。ニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)のスタッフに感想を求めたところ、"誰も良いと言わず、転職先を探し始める者まで居た"[1]。あるいは、役員の多くが否定的な反応を見せる中、山内社長は"パッと見ただけで「これはイケる」"[2]と答えた等、賛否両論であったとの逸話が伝えられています。
さて、「ドンキーコング」が初めて家庭用ゲーム機に移植されたのは日本のファミリーコンピュータ―――ではなく海の向こうのアメリカ。
玩具メーカーのコレコ社がリリースしたコレコビジョンです。
○コレコビジョン (Wikipedia)
○PLAY VALUE 『コレコビジョン』[3] (ニコニコ動画)
ニコニコ動画でも触れられているように、コレコとはコネチカット・レザー・カンパニーの略。[4]
日本ではほぼ無名ですが、70年代から80年代にかけて据え置きゲーム機やハンドヘルドゲーム機を多数手掛けています。
アタリVCS(77年)に代表されるカートリッジ交換式ゲーム機の成功を受けて、1982年9月にコレコ社はコレコビジョンを発売。「ドンキーコング」を本体に同梱し、アーケードで稼動中の人気ゲームが家庭で遊べることを大々的にアピールしました。
ところで、《コレコ社はコレコビジョンのキラーソフトとして、当時好評を博していた「ドンキーコング」のライセンスを取得した》との説明をしばしば見かけます。
しかし記事冒頭に挙げたように、ブロムレイと「ドンキーコング」との出会いは予期せぬ出来事でした。つまりコレコ社は、「ドンキーコング」がアメリカでヒット作となる前にライセンス契約をもちかけていたというのが真相なのです。
エリック・ブロムレイが任天堂本社に居た理由や、「ドンキーコング」を目にした正確な日時は不明です。ただし、当時NOAの法務を担当していたハワード・リンカーンによれば、コレコ社との間で「ドンキーコング」のライセンス契約の話が持ち上がったのは"81年のクリスマスの頃"と証言しています。
おそらくブロムレイの回想は、この時期の直前で間違いないでしょう。
一方、業務用「ドンキーコング」のアメリカでの出荷は81年10月。
当初は不良在庫化していた「レーダースコープ」のROM交換分として約2000台を用意。これがすぐさま完売したため、NOAは任天堂本社に改めて完成基板の製造を依頼しました。即ち、アメリカで「ドンキーコング」が本格的にブレイクするのは、日本より追加発注分が到着する82年に入ってからとなります。
確かに時系列を整理してみますと、81年末の時点でコレコ社の人間が「ドンキーコング」を知らなかったとしても不自然ではありません。
ともあれグリーンバーグの了承を得たブロムレイは、任天堂との交渉に着手。
1982年2月1日、コレコ社は「ドンキーコング」の家庭用機への移植販売権について、カートリッジあたり1.4ドルを任天堂に支払うことで正式に合意します。
その後、業務用「ドンキーコング」はアメリカだけで6万7千台を出荷。
コレコビジョンも初回製造分の50万台を82年内に消化し、翌83年3月には累計販売台数100万台を達成するという良好なスタートを切ります。
後にマリオが"世界でもっとも有名なゲームキャラ"となることも考えると、(結果的に)ブロムレイの言う通りこの契約はリーズナブルであったことは間違いありません。まさに、慧眼と言っても過言ではないでしょう。
…それにしても、任天堂が24時間以内に前金として20万ドルを要求したのは、ずいぶん無茶な話に思えます。当時の玩具メーカの商取引習慣は詳しくないのですが、そんなに任天堂はキャッシュが欲しい事情があったのでしょうかね?(笑)
[1] NHK『新電子立国』より、NOA元社長の荒川實氏の証言
[2] 『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』(青春出版社)より、宮本氏の証言
[3] 余談だが、番組内で触れられているVCS互換アダプターについては、アタリ社に訴訟を起こされている。後にコレコ社は、アタリ社にライセンス料を支払うことで和解した。
[4] ただし皮革部門は60年代に売却されている。
(参考文献)
『HIGH SCORE! the illustrated history of electronic games 2nd edition』
『The Ultimate History of Video Games』
『それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち』
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