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「ファミコンは自信なかった」――ファミコンの生みの親・上村雅之氏が語った"遊びの原点" [レビュー]

(インタビュアーより、ファミコン開発当時に考えていたことを問われて)

上村――正直いって自信は全くありませんでした。そのときの僕のノートには、はっきりと「これは売れない機械や」と書いてあるぐらいですから。当時は『ゲーム&ウォッチ』が隆盛を極めていましたので、その持ち運べるという長所ばかりが目立って欠点は見えてこない。だからテレビゲームのほうは意外と欠点が目立って長所が見えてこない……というふうにウルトラ弱気な感じでね、着手していたと思いますね(笑)。
 (中略)たとえば、遊びというもののなかには、ひじょうに複雑な要素が含まれていますが、かっこよく技を決めたりしたときには「見て見て、こんなの!」といって、ともだちに見せたりするときにはテレビというのは向いていると思うんですね。ただし、もう一方では自分の気の向くままにちょっと時間をつぶしたいとか、純粋にゲームを楽しむという要素もある。たとえば、それはゲームボーイだったりパソコンなどです。
 さっきもいいましたが、ファミコンをつくるときに、極めて弱気だった理由が『ゲーム&ウォッチ』でした。あのときの僕が考えていたスペックはじつはゲームボーイやったんですよ。コストなどいろいろな問題がありまして見事に負けたんですけど。社長からみたら、「理想性はよくわからないけど、横井が考えているやつのほうがええわ」ということになって、『ゲーム&ウォッチ』は大ヒットしたわけです。そのとき何がいちばんショックやったかというと、やっぱり持って歩けるということでしたね。それが原点だと思うんですよ。(中略)
 玩具の「玩」という文字には、「手のうえでコロコロと遊ぶ玉」という意味があります。つまり、<遊びの原点>みたいなものがある。そういう意味で、まだまだ技術の進歩があると仮定すれば、『ゲーム&ウォッチ』に始まった<遊びの技術>がほんとうにオモチャの世界へ進歩していけば、その<遊びの技術>がハンドヘルドへ回帰していくと思います。みんなでワァーっと遊ぶときはゲームボーイじゃ不便なんで、テレビでディスプレイしてみようとかね。それで両立するというよりは、テレビゲームという意味じゃなくて、「ゲームだけがいろんな衣を着て遊ばせてくれるだろう」というふうになると想像しています。


インタビュー:1998年10月 製造本部開発第二部(当時)上村雅之氏




以上、2000年に出版された『It’s The NINTENDO』より、"ファミコンの生みの親"である上村雅之氏の発言を引用させていただきました。
上村雅之 (Wikipedia)

実は僕自身、最近になってこのインタビューを読んだのですが、「これ(ファミコン)は売れない機械」との言葉には面食らわれた方も多いのではないでしょうか?
(なにしろ我々は、後のファミコンが歩んだ歴史をよく知っているのですから!)

もっとも上村氏は別のインタビューでも、ファミコンと同時期に発売されたMSXに対して「家電に食われると思った」と危機感を憶えたことを明かされています。1983年の時点で、我が国の家庭用ゲームビジネスはいまだ"霧の中"にあったわけです。

ファミコン誕生のいきさつについては、「半導体メーカーに2年で300万台の納入を保証した」との逸話が巷間伝えられているように、あたかも任天堂は強気の態度で臨んだかのように語られることが多々あります。
しかし少なくとも、開発を指揮する立場にあった上村氏自身がファミコンに対してかなりネガティブな印象を抱かれていたことは、記憶に留めておくべき事実に思えます。

ところで僕が非常に興味深く感じたのは、上村氏がテレビ受像機を利用する据置型ゲーム機よりも、「持って歩ける」携帯機の方が優位性が高いと認識されていた点です。「考えていたのはゲームボーイ」との発言を信じるのなら、80年代前半の時点で既にカートリッジ交換式の携帯ゲーム機の構想すらお持ちであったのはいささか驚きました。
インタビューの中でも触れられているように、当時はゲーム&ウオッチが大ブレイクしていた頃です。上村氏がノートに記した「売れない機械」との言葉は、携帯機の成功を目の当たりにした一人の技術者としての偽らざる思いであったのでしょう。

ただし当の上村氏が率いる開発二部は、その後もディスクシステム、スーパーファミコンにサテラビューと一貫して据置ゲーム機や周辺機器を担当。ゲームボーイ、GBAといった携帯機の開発には(少なくとも直接的には)関わられておりません。
03年に上村氏は開発責任者の立場から退かれ、現在は立命館大学大学院で教鞭を取られています。

その1年後の2004年、任天堂はニ画面タッチパネルの斬新な携帯型ゲーム機を市場に投入します。ご存知、ニンテンドーDSです。
2010年までに全世界で1億2800万台以上という驚異的なセールスを成し遂げ、DSはゲームボーイを抜いて史上最も普及した携帯ゲーム機となりました。

果たして上村氏は開発中のDSに触れられる機会はあったのでしょうか?それはわかりません。

かつて上村氏が理想に掲げ、技術の進歩によって必ずや回帰すると予言したハンドヘルドという"原点"―――現在のニンテンドーDSの隆盛と、裸眼立体視ディスプレイを採用した後継機3DSの発表は、"ファミコンの生みの親"の目にはどのように映っているのでしょうか?
1983年7月15日のファミリーコンピュータ発売から本日で丸27年。是非とも上村氏に、現在の心境をお伺いしてみたいところですね。

出典:『It’s The NINTENDO』 武田亨 ティーツー出版(2000年)

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zentaroh

ゲームボーイに先立つこと1985年に発売されたゲームポケコンを見て
改めて携帯ゲーム機の難しさ(特に小型化)に直面したのではないかと思われます。
by zentaroh (2010-07-15 12:04) 

NO NAME

非常に興味深い内容でした.

宮本さんは知っていても、ファミコンの開発の親である上村さんの存在も初めて知りました.
by NO NAME (2010-07-16 07:59) 

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