『日本デジタルゲーム産業史』(初版第1刷)第2章について [レビュー]
日本デジタルゲーム産業史: ファミコン以前からスマホゲームまで
- 作者: 小山 友介
- 出版社/メーカー: 人文書院
- 発売日: 2016/06/27
- メディア: 単行本
6月末に刊行された『日本デジタルゲーム産業史』(初版第1刷)の第2章について、米国家庭用ビデオゲームに関する記載内容を中心に、事実誤認や疑問に感じた箇所を指摘させていただきます。
P.28他
(誤)Magnabox
(正)Magnavox
p.35
(誤)テレスター(Telester)
(正)テルスター(Telstar)
p38
(誤)ビデオ・コンピューティング・システム(Video Computing System)
(正)ビデオ・コンピュータ・システム(Video Computer System)
・ステラ(アタリVCS)に関して、“コントローラーとしては、家庭用ゲーム機で初めてジョイスティックが採用された”との記述があるが、欧州で1976年に発売された1292 Advanced Programmable Video Systemという名のゲーム機が2軸スティックを採用していたとの記録がある。
(参考リンク) 1292 Advanced Programmable Video System - Wikipedia, the free encyclopedia
・VCSの不調について、ブッシュネルと意見が対立した人物はレイモンド・カサールではなく、正しくはワーナー副社長のエマニエル・ジェラルド。
p.40 脚注25
・アタリの「Adventure」が“イースターエッグの始まり”と記されているが、これは少々説明が必要。2016年現在において、チャンネルFの「Video Whizball」(1978年)が家庭用ビデオゲームで最古のイースターエッグと考えられている。
(参考リンク) Video Whizball - The Cutting Room Floor
ただし「Adventure」は、(1)ゲーム雑誌などを通じて広く知れ渡った最初のイースターエッグであり、(2)単なるイニシャルや符号ではなく、“Created by Warren Robinett”と明確なメッセージになっていたことが特筆すべき点と言える。
p.41
・VCSにおけるサードパーティ制度について。当のアタリ自身がロイヤリティを新たな収益源と見なしていたという話は寡聞にして知らない。(アタリとアクティビジョンとの間で結ばれた和解条件は非公開のため私見になるが、ロイヤリティ額は極めて小額であったと考えられる)
また当時はアタリとサードパーティーとの間で、ゲーム内容の事前審査、内部仕様の公開、開発機材の提供といった連携活動も行われていない。
以上の理由から、この時点での状況を“基本的なビジネスモデル”と呼ぶのは不適切と考える。
p.42
(誤)Intellevision
(正)Intellivision
・インテレビジョンの発売年を1979年としているが、これはカリフォルニア州フレズノでの試験販売が行われた年であり、正式発売されたのは1980年。
・インテレビジョンは“家庭用ゲーム機初の16色表示”との記述について。
単純に可能かどうかという話であれば、1977年に発売されたVCSも一画面に16色を表示することは「できる」。
ただし詳しい説明は端折るが、VCSのグラフィックは極めて制約が大きいため、「水平ラインごとに色を変えていく」ような絵作りになってしまう。そして、さらに重要なことは、この多色テクニックは後年になって確立されたものである。
以上の経緯から、インテレビジョンは「設計段階で16色表示機能が実装」された初のゲーム機と呼ぶのが適切と考える。
・インテレビジョンのコントローラーのボタンの数は、“2つ”ではなく正確には合計4つ。(利き腕がどちらでも対応できるように、同じ機能を持つボタンがコントローラーの左右側面に2つづつ搭載されているため)
p.43
(誤)Crash of 1983
(正)Video game crash of 1983
脚注30
(誤)コレコは日本での小売価格をあと10%下げることを主張した。
(正)コレコは任天堂への本体販売価格として、小売価格から10%差し引いた金額を主張した。*1
脚注31
(誤)ゾンビ
(正)グレムリン(Gremlin)
p.44
アタリ5200の価格が“比較的安価”と表現されているが、1982年末の実勢価格としてはVCSが150ドル前後、インテリビジョンが200ドル台前半、コレコビジョンが200ドルであり、むしろ高価な部類であった。(ただし1983年に入って販売競争が激化すると、200ドルを割り込んでいる)
また、5200の直接のライバルは、インテレビジョンではなくコレコビジョンである。
p.45
・カサールが“映画のヒットタイトルの名が付いた商品が(中略)売れると考えていた”と記されているが、『E.T.』は親会社のワーナー・コミュニケーションズの会長であるスティーブ・ロスの強い意向に基づいて企画された。カサールの責とするのは人違いと言える。
・ “6週間という短期間での開発を強いられた”のは、『パックマン』ではなく正しくは『E.T.』。 *2
p.46
・マテルは1983年にエレクトロニクス部門の不振が原因で約4億ドルもの損失を計上したことにより、1984年の2月に家庭用ゲーム市場の撤退を発表している。
・コレコの倒産は1988年であり市場崩壊とは時期が離れている。ちなみに、1984年のコレコの損失額は7980万ドル。
p.50
・アタリの家庭用・パソコン部門がトラミエルへと売却されたのは、1974年ではなく1984年。
脚注38
(誤)アタリゲームズの買収はゲーム市場への再挑戦となる
(正)アタリコープの買収はPC市場への再挑戦となる
脚注
*1 このコレコビジョンと任天堂の逸話は、『High Score!: the illustrated history of electronic games 2nd edition』(2004年)に収録されている。原文は次の通り。
(原文)Leonard wanted to sell it to them for 10 percent below our regular selling price.
(訳文)レオナルド(コレコ社会長)は、コレコビジョンを任天堂に、標準小売価格から10パーセント差し引いた金額で販売することを希望した。
*2 『Atari Inc. Business is Fun』(2012年)によれば、 VCS版『パックマン』の開発期間は1981年の5月最終週から9月第二週とされる。
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