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書籍『ファミコンとその時代』への疑問点 その2 (序文、四章他) [レビュー]

ファミコンとその時代

ファミコンとその時代

  • 作者: 上村 雅之
  • 出版社/メーカー: エヌティティ出版
  • 発売日: 2013/06/28
  • メディア: 単行本

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書籍『ファミコンとその時代』への疑問点 (アタリ社家庭用ゲーム機関連)

書籍『ファミコンとその時代』より、序文、第四章、および巻末資料の海外ビデオゲームに関する記述への疑問点を列挙します。
中には明らかに単純なミスも含まれていますが、本書がビデオゲーム史の先行研究として、将来的に発表される著作論文の引用元となる可能性が高いため、このような指摘を公開することは必要ではないかと思います。




COMPUTER SPACE  コイン式ビデオゲーム試作品 (p.vi)

『COMPUTER SPACE』は、1971年にナッチング・アソシエーツ社より発売された世界初の商用コイン式(業務用)ビデオゲーム機。“試作品”との表記は明らかに不適切である。



アタリのVCS2600 (p.141他)

Atari Video Computer System(VCS)はアタリ社が1977年に発売した家庭用ゲーム機。そして、1982年にVCSはAtari 2600へと改称された。
しかし、“VCS2600”との表記は一般的ではない。敢えて併記するのであれば、「VCS(Atari 2600)」とするべきであろう。



 ファミコンは、1983年、アーケードで高い実績があり、ゲーム&ウオッチにも移植されていた「ドンキーコング」をローンチタイトルの一角に据え、ゲーム&ウオッチ版「ドンキーコング」で採用された「十字ボタン」をコントローラに組み込んで発売された。(中略)
 もっとも、業界の評判は、それほど芳しいものではなかった。「当初、アタリショックを知る流通には受け入れられず、有力な百貨店などは「委託でなら置いてもいい」ときわめて消極的な姿勢をとったのである」と言われている。 (p.143)

この、“当初、アタリショックを知る流通には受け入れられず、有力な百貨店などは「委託でなら置いてもいい」ときわめて消極的な姿勢をとった”とは、山内溥氏の寄稿文*1からの引用であるのだが、極めて疑わしいと言わざるを得ない。
第一に、ファミリーコンピュータが発売された1983年7月の時点では、アメリカの家庭用ゲーム市場はいまだ決定的な崩壊には至っていない。故に、当時の日本の流通業者の間で、アタリショックが広く知られていたとは到底信じることができない。そして第二に、この時期の日本では同業他社からもカートリッジ交換型ゲーム機が発売されており、活況の様相を呈していた。エポックのカセットビジョンJr.、トミーのぴゅう太Jr.、バンダイのアルカディアと光速船、アタリ社のアタリ2800、セガのSG-1000などである。仮に山内氏の言うようにファミコンが当初は流通業者に扱ってもらえなかったとすれば、それは既に玩具市場に数多くの家庭用ゲーム機が存在したからではないだろうか?
以上の理由から、この部分の山内溥氏の証言に関しては、無批判に引用すべきではないと筆者は考える。



 アタリは、プラットフォームの価値を高めるのがソフトであるという認識をVCS2600リリース時は強く認識していたと考えられる。それが、「スペースインベーダー」を比較的そのゲームデザインに忠実なまま移植するという結果につながった。リリース直後、それまで低調だったVCS2600の売り上げが40万台と飛び跳ねる。これらを契機に、Activisionをはじめ続々とサードパーティが参入し、その中から人気のあるコンテンツも生まれるようになった。  (p.181)

200文字程度の文章の中に、ツッコミどころが多数。以下、箇条書きで指摘していく。

● “それまで低調だったVCS2600の売り上げが40万台と飛び跳ねる”とは、スコット・コーエン著『Zap』の記述からの引用なのだが、結論から言うとこれは『Zap』が間違っている。
この40万台とは、1977年に製造されたVCSの台数であり、1980年に『スペースインベーダー』が発売されるまでそっくりそのまま在庫になっていたという事実誤認に基づいている。実際には、アタリ社は初回製造分の40万台を翌78年に消化し追加生産を行っていた。余談ではあるが、この『Zap』の誤認識は赤木真澄著『それは「ポン」から始まった』にも引用されてしまっている。*2
● Activisionの設立は、VCS版『スペースインベーダー』が発売される以前の1979年10月。
● そもそも、“アタリは、プラットフォームの価値を高めるのがソフトであると(中略)強く認識していた”との推論自体に疑問を感じる。なぜなら、文中で名前が挙げられているActivisionこそまさに、好待遇を得られないことに不満を持ったアタリ社のVCSソフト開発者たちが設立した会社である(これは著者自身もp.187で触れている)。もしもアタリ社経営上層部がソフトウェアの重要性を真に理解していたのなら、彼らのような優秀な開発者の流出を引き起こすことは無かったはずだ。



 単に映画が大ヒットしたという理由から「E.T.」と「レイダーズ:失われたアーク」の開発を決定。本来9ヵ月は必要な開発期間を7週間としてプログラマーに強いた(後略)。  (p.182)

● 『E.T.』開発者のハワード・スコット・ウォーショウの証言によれば、彼に与えられた『E.T.』の開発期間は、正しくは5週間半。*3
● 『レイダース』の開発期間は、同じく開発者のハワード・スコット・ウォーショウの証言によれば6~7ヵ月。またゲームの出来自体も、いささかルールが難解ではあるものの、良質のアクション・アドベンチャーゲームとして肯定的に評価されている。



1981年 米国、アタリ社。アタリ2600向け映画連動ゲーム「E.T.」、「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」の企画に流通の期待が集まる。 (p.276)

正しくは、これは1982年の出来事。実際、『レイダース』と『E.T.』は共に、82年末商戦の目玉ソフトの一つとして発売された。
ちなみに、映画『E.T.』がアメリカで劇場公開されたのは1982年6月。そしてスピルバーグ監督と(アタリの親会社の)ワーナー・コミュニケーションズとの間で許諾契約が締結されたのは1982年7月である。時系列を考えれば、1981年のうちに『E.T.』のゲーム化企画が公表されることなどありえない。



1982年 米国、アタリショックに見舞われる。ワーナーの株価は一挙に1/3に。  (p.276)

正しくは、ワーナーの株価は「2/3」に下落した。*4



*1 『ファミリーコンピュータ 1983-1994』 太田出版 (2003年)。尚、私見ではあるが、この証言は日本の状況を言い表したものではなく、後にファミコンがアメリカへ進出した際の話と記憶違いしているのではないかと疑っている。
*2 『それは「ポン」から始まった』 赤木真澄  アミューズメント通信社 (2005年) p.168 
*3 ○DP Interviews... Howard Scott Warshaw
*4 詳しくは次のblog記事を参照のこと。 ○アタリショック論appendix 1982年12月8日に何が起きたのか

(2013/08/27) 『レイダース』の開発期間他、一部文章を加筆修正。
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