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アタリショック論(4) More Games, More Toys [レビュー]



* ”More Games, More Toys” (もっとゲームを、もっと玩具を)

トイザラスのテレビCMのジングルより(上の動画の0:25)。ちなみに、0:17に登場するビデオゲームは、アタリVCS対応ソフト『E.T. The Extra-Terrestrial』。



■アタリショック関連記事のまとめはこちら

 そして、アタリショックと呼ばれる1982年のクリスマス商戦がやってくる。小売店は、とにかくVCS用のソフトが売れるということで、在庫の確保に奔走した。しかし、ふたを開けてみると、まったくソフトが売れないという事態に直面したのだ。前年のクリスマス商戦では30億ドルの売り上げがあったのに、この年は1億ドル以下になってしまったのだ。小売店は大量の在庫を抱えてしまい、倒産するところも続出した。

―― 『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』 (2010年)
[1]

前回の更新から随分と間隔が空いてしまったことをお詫びします。

さて本稿では、いわゆる「アタリショック」と呼ばれるアメリカの家庭用ビデオゲーム市場崩壊において、流通・小売業者の果たした役割を考察したい。
それというのも我が国の「アタリショック」観は、“ゲームソフトの粗製乱造で消費者を裏切ったことにより売上が急落した”などといった短絡的なストーリーが語られるばかりで、当時の実情を誤解しているとしか思えない言説が多々見受けられるからである。

例えば「アタリショック」の通説において “小売店の大量倒産が起きた”との表現をよく目にするが、これは不適切である。仮に80年代前半のアメリカで“小売店の大量倒産”が発生していたのであれば、事はビデオゲームに留まらずアメリカの小売業界に多大な影響を及ぼした事件として記録されている筈だ。しかし、そういった事実を確認することはできないのである。

この様な誤解を払拭するためにも、まずは市場崩壊直前のアメリカにおいて家庭用ビデオゲームの流通・販売はどのような状況にあったのかを整理してみたい。

■家庭用ビデオゲームの販売動向
まず、本論で再三述べていることではあるが、上に引用した『ゲームの父・横井軍平伝』について指摘しておく。“前年(1981年)のクリスマス商戦では30億ドルの売り上げがあったのに、この年(1982年)は1億ドル以下になってしまった”との記述は誤りである。
正しくは、1982年におけるアメリカの家庭用ゲーム市場の総売上高が約30億ドルであり、1億ドル以下に落ち込んだのは1985年となる。
以下に、アタリショック論(1)で示した図を再掲する。

videogamecrash_fig1.jpg

83年以降の低落と並んで注目すべきは、1981年から1982年にかけての驚異的な成長である。
おおよそ10億ドル(81年)から30億ドル(82年)、実に対前年伸長率で200%にも及ぶ。

ところで、第1図に示した売上高とはメーカー出荷額に相当する。では、より直接的な数字である小売店での販売状況はどうであったか?

『ビルボード』誌によれば、1982年の家庭用ビデオゲーム製品の小売売上高は67億ドル。玩具市場における占有率は、81年の19%から82年は31%へと上昇した。
また、玩具チェーンを対象にした調査によれば、ビデオゲーム製品の売上構成比が25%未満の店舗は43%、25~50%の店舗は21%、51~75%の店舗は32%であった。[2]
参考までに、アメリカ最大の玩具量販チェーンにして、エレクトロニックゲームの販売シェア5~6%を有していたトイザラスでは、1982年のビデオゲーム製品の売上高は1億8700万ドルに達し、売上構成比も1981年の11%から1982年は18%に上昇した。[3]

以上のように、小売店においても81年から82年にかけて家庭用ビデオゲーム製品の売上が躍進目覚しかったことは、数字に如実に表れていると言えよう。

ただし当時のアメリカでは、ビデオゲーム需要の高まりを受けてありとあらゆる場所でゲームソフトが販売されていた。
全米に販路を持つ大手チェーンストア―――例えば百貨店のシアーズやJCペニー、ディスカウント店のKマートやターゲット、玩具専門店のトイザラスやチャイルドワールドはもちろんのこと、電器店、ドラッグストア、果てはミュージックショップや書店、ガソリンスタンドなど、玩具類と縁の無かった中小規模の小売業者までもがゲームソフトを取り扱い始めた。
確かに、現在のゲーム専門店並みの売上構成比を示していた小売店は存在していたようだが、これは少数派であろう。多くの小売業者にとって、家庭用ビデオゲームは取り扱い商品の一カテゴリーに過ぎなかったと筆者は考える。[4]


■家庭用ビデオゲームソフトの販売モデル
アタリ社が1977年にVCSを発売した頃、家庭用ゲームは従来の玩具製品と同様に、クリスマス商戦のみに焦点を当てたプロモーションを行うことが通例だった。しかし、本当に人々は年末しかビデオゲームを購入しないのであろうか?アーケードゲームの人気作は季節を問わない集客力を有するというのに?
こうして1979年、アタリ社は一年を通じて家庭用ビデオゲームの販売展開を行うようになり、程なくしてVCSは商業的成功を収めた。(言うまでも無く、競合他社もこの戦略を追従している)

ところで、VCSに代表されるカートリッジ交換型ゲーム機の最も大きな特色は、CPUを搭載した本体とプログラムROMを収めたカートリッジが分離していることだ。即ち、本体側を更新することなく(理論上は)無限に新作ゲームを供給することが可能である。
VCS対応ゲームカートリッジの製造コストは4ドル50セントから6ドル、広告費はカートリッジあたり1ドルから2ドル、1982年の平均卸値は18ドル95セントとされている。元来、メーカーにとってゲームソフトは、40%から50%の粗利を期待できる「うまみの大きな商品」であったのだ。[5]

一方、小売店の立場から見たゲームソフトの販売モデルは次の通りである。
82年前後において、ゲームソフトのリストプライス(表示価格)は、メーカーや対応プラットフォームによって異なるが概ね30ドル~40ドル。そして、新作ソフトが最も売れるピークは発売直後の2~3週間以内である。ここで売れ残ったソフトは、マークダウン(値引き販売)の対象となり順次値札が貼り替えられて行く。
当時、平均的なゲームソフトの商品寿命は90日程度と認識されていた。発売後2~3週間でリストプライスより20%オフ、そして発売後6~8週間が経過したタイトルは50%オフで販売される。[6]

折りしもアタリショック論(2)で述べたように、アクティビジョンを発端としてVCS市場にサードパーティが続々と参入していた。その結果、82年のVCS対応ソフトの発売タイトル数は大幅に増加している。(第一表を参照のこと)
10~30%程度の利益率ながら、クリスマスシーズンのみに商機が限定されず、回転率が高い家庭用ビデオゲームソフトは、小売業者にとっても優良な商品である筈だった―――しかし不幸にもそれは、1982年を終えるまでのことであったのだが。


ここで時計の針を1981年10月に巻き戻す。
実はこの時期にアタリ社は重大な失策を犯している。
筆者は、アタリ社およびVCSのみに市場崩壊の責があるとは考えないが、ビデオゲーム産業を主導していたアタリ社の地位が低下した原因の一つと呼べるほどの重大な失策であるため触れざるをえない。

…といったところで、いささか文章が長くなってしまった。
ここで一旦筆を置き、果たして82年~83年のアメリカの小売店で何が起きていたのかを次回で詳しく検証することとしたい。

(続く)

[1] 『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』 牧野武文 角川書店 (2010年)
[2] 『Billboard』 (February 26, 1983)
[3] [6] 『Billboard』 (March 19, 1983)
[4] 後のGameStopやEB Gamesのような全米規模のビデオゲーム専門チェーン店は、80年代前半当時はいまだ存在していなかった。
[5]  『InfoWorld』 volume5, Number 48 (1983年) ジョン・ハブナー、ウィリアム・F・キスナーJr.
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