「やる夫が任天堂社長になるようです」にツッコミ [日記・雑感]
○やる夫が任天堂社長になるようです 【前編】
○やる夫が任天堂社長になるようです 【後編】 (from あんそく)
○上村雅之 (from Wikipedia)
○『TGS2008スペシャル』 任天堂「ファミコン」はこうして生まれた (from 日経トレンディネット)
○「遊びをせんとや生まれけむ」--生みの親が語るファミコン成功の秘訣 (from CNET)
"ファミコンの生みの親"である上村雅之氏は元々シャープの半導体事業部に所属。ソーラーバッテリーのシリコンフォトダイオードの営業を行っていた際に任天堂と出会います。
「やる夫が任天堂社長に~」の中でも触れられていますが、60年代末から70年代初頭にかけて、任天堂は新たに電子玩具の分野への進出を模索していました。そして当時開発中であった光線銃に、上村氏が売り込んだシャープの部品が採用されたのです。
「やる夫が任天堂社長に~」では、あたかもゲーム&ウォッチの液晶パネルがきっかけでシャープと取引が始まったかのような説明がありますがこれは誤っています。実際には、それ以前から関係がありました。
1972年、上村氏はシャープから任天堂へと転職。開発課に迎え入れられます。
ただし、前述のように上村氏はシャープでセールスを担当しており、開発手法を勉強してきたわけではありませんでした。
上村氏は当時を振り返り、
「アマチュアの延長みたいなもので、我流でやってたんですね。要は娯楽品ですから人を傷つけるわけではない。社会的に開発を急がれる商品でもない。期限があってないようなものですしね。」
と述べられています。今のゲーム業界からは想像もつきませんが、なんとも鷹揚な時代であったことが伺えます(笑)。
1980年、任天堂の開発課は開発部となり、三部に分けられます。
「ホームユース及びアーケードゲーム」を担当する第一部、「ホームユース」を担当する第二部、「アーケードゲーム及び関連機器」を担当する第三部。
そして83年に発売されるや否や、たちまち日本中を席巻した歴史的ゲーム機 ――― ファミリーコンピュータを開発したチームこそ、他でもない上村雅之氏率いる開発二部でした。
「やる夫が任天堂社長に~」では、横井軍平氏がファミコン開発の中心人物であったかのような描写がありますがこれは不適切です。実際には横井氏の所属は開発一部であり、主にソフトウェアの製作を担当しました。
尚、以前に当blogでも紹介したことがありますが、任天堂がファミコンを発売する際にカスタムチップの供給元であったリコーに対して「二年間で300万個を保障した」とする逸話は、山内溥氏本人の発言によって否定されています。
○「ファミコン用チップ300万個保証」はフィクションだった?
Wikipediaの「ファミリーコンピュータ」の項でも言及されているほど広く知れ渡っていますが、個人的には訂正されるべきではないかと考えています。
(参考文献)
○『任天堂の秘密』 上之郷利昭 現代出版(86年)
○やる夫が任天堂社長になるようです 【後編】 (from あんそく)
いくらなんでも上村雅之氏を無視しすぎだろ、常識的に考えて。 |
○上村雅之 (from Wikipedia)
○『TGS2008スペシャル』 任天堂「ファミコン」はこうして生まれた (from 日経トレンディネット)
○「遊びをせんとや生まれけむ」--生みの親が語るファミコン成功の秘訣 (from CNET)
"ファミコンの生みの親"である上村雅之氏は元々シャープの半導体事業部に所属。ソーラーバッテリーのシリコンフォトダイオードの営業を行っていた際に任天堂と出会います。
「やる夫が任天堂社長に~」の中でも触れられていますが、60年代末から70年代初頭にかけて、任天堂は新たに電子玩具の分野への進出を模索していました。そして当時開発中であった光線銃に、上村氏が売り込んだシャープの部品が採用されたのです。
「やる夫が任天堂社長に~」では、あたかもゲーム&ウォッチの液晶パネルがきっかけでシャープと取引が始まったかのような説明がありますがこれは誤っています。実際には、それ以前から関係がありました。
1972年、上村氏はシャープから任天堂へと転職。開発課に迎え入れられます。
ただし、前述のように上村氏はシャープでセールスを担当しており、開発手法を勉強してきたわけではありませんでした。
上村氏は当時を振り返り、
「アマチュアの延長みたいなもので、我流でやってたんですね。要は娯楽品ですから人を傷つけるわけではない。社会的に開発を急がれる商品でもない。期限があってないようなものですしね。」
と述べられています。今のゲーム業界からは想像もつきませんが、なんとも鷹揚な時代であったことが伺えます(笑)。
1980年、任天堂の開発課は開発部となり、三部に分けられます。
「ホームユース及びアーケードゲーム」を担当する第一部、「ホームユース」を担当する第二部、「アーケードゲーム及び関連機器」を担当する第三部。
そして83年に発売されるや否や、たちまち日本中を席巻した歴史的ゲーム機 ――― ファミリーコンピュータを開発したチームこそ、他でもない上村雅之氏率いる開発二部でした。
「やる夫が任天堂社長に~」では、横井軍平氏がファミコン開発の中心人物であったかのような描写がありますがこれは不適切です。実際には横井氏の所属は開発一部であり、主にソフトウェアの製作を担当しました。
尚、以前に当blogでも紹介したことがありますが、任天堂がファミコンを発売する際にカスタムチップの供給元であったリコーに対して「二年間で300万個を保障した」とする逸話は、山内溥氏本人の発言によって否定されています。
○「ファミコン用チップ300万個保証」はフィクションだった?
Wikipediaの「ファミリーコンピュータ」の項でも言及されているほど広く知れ渡っていますが、個人的には訂正されるべきではないかと考えています。
(参考文献)
○『任天堂の秘密』 上之郷利昭 現代出版(86年)
タグ:ゲーム
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