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ATARIはいつもそこにある [レビュー]

据置は死んだ。次いってみよう。
据置ゲームがこの世の地獄から生還するためにせねばならない事
SCEと任天堂の「いつか来た道」 (from FIFTH EDITION)

言いたいことはよくわかりますし、賛同できる部分も多いのですが、その一方であまりに「任天堂史観」的な認識を披露されている点が気になって仕方ありません。

それは、「ドンキーコングはゲーム&ウォッチよりもアーケード版の功績が大きいんじゃない?」だとか、「PCエンジンは8bit機ですよ」とツッコミたくなるような細かい誤りだけでない。
僕が最も違和感を憶えたのは、“据置ゲームがこの世の地獄から~”にある次の説明です。尚、原文の「コントーラー」は、「コントローラー」に訂正させて頂きました。


僕は、アタリショックは、そのコントローラー部分、つまり、インターフェースでの失敗が大きいのではないかと思っている。
どんなゲームソフトでも、ユーザーはゲームをするとき、コントローラーを通して、ゲームキャラを操作する。
つまり、ゲーム内容は、コントローラー縛りを受けるのである。(中略)

アタリVCSのコントローラーは、残念だが、優れているとは言い難かった。
これをみればわかるが、スティック操作にボタンが一つ。これだけでは、ゲームソフトでは、沢山のことはできない。キャラクターの操作も限られてくる。操作も難しい。
その結果、生まれてくるゲームソフトは、粗製濫造というより、似たようなものばかりになり、「ユーザーに飽きられてしまう」のである。インターフェースは、ゲームにとってはとてつもなく重要なのだ。僕は、これが、アタリの失敗に繋がったのではないかと思う。



まず最初に断っておきます。インターフェイスの変化がゲームの間口を広げることや、任天堂の十字キーの発明が偉大である点には全く異論はありません。
問題なのは、「アタリVCSが失敗した原因は、コントローラーが1スティック+1ボタンであったために、“似たようなものばかり”のゲームが氾濫したから」との説明です。
もしも本気で言っているのだとしたら、事実誤認以外の何者でもないですね。

フェアチャイルド社のチャンネルFに、“世界初のROMカートリッジ式ゲーム機”の座こそ譲りますが、アタリVCSは“初めて商業的に成功したカートリッジ式ゲーム機”として知られます。
Atari 2600 (from Wikipedia)

発売は1977年。日本のカセットビジョン(81年)どころか、ゲーム&ウォッチ(80年)の実に3年前。
つけ加えるなら、ビデオアーケードの大ヒット作『スペースインベーダー』の登場は78年です。
『PONG』(72年)によって生まれたビデオゲーム産業が、ハードウェア性能とプログラミング技術の進歩という“車の両輪”によって大きく拡がっていた時期に、VCSは誕生したと言えます。

ここで皆さんに思い出して頂きたいのですが、70年代のビデオゲームの操作には、どのようなインターフェイスが用いられていたでしょう?
世界初のビデオアーケード『コンピュータースペース』(71年)は、なんと4ボタン。「ショット」、「前進」、「自機右旋回」、「左旋回」にそれぞれ使用します。
『PONG』(72年)を起源とするパドルゲームには、ロータリーコントローラー(パドルコントローラー)が用いられていました。このジャンルからは、『ブレイクアウト』(76年)、エキシディの『サーカス』(77年)といったヒット作が多数生み出されます。岩谷徹氏の処女作にして、ナムコ初のビデオアーケードである『ジービー』(78年)もパドルゲームでした。
『スペースインベーダー』『ギャラクシアン』(79年)といった初期の固定画面STGは、1レバー(2方向)+1ボタンが基本です。
そしてご存知、『パックマン』(80年)で使用するのは1レバー(4方向)だけです。

変わったところで、80年の作品ですがWilliamsの大ヒットSTG『ディフェンダー』は1レバー+5ボタンでした。レバーで上下移動、ボタンにはそれぞれ「ショット」、「前進」、「左右方向転換」、「ボム」、「テレポート」の機能が割り振られています。現在の感覚からするとかなり無茶な仕様ですね(笑)
他にも、トラックボール+3ボタンの『ミサイルコマンド』、スロットルレバー+3ボタンの『ルナランダー』など、ユニークな操作系を持つ作品は枚挙に暇がありません。

では、家庭用ビデオゲーム機ではどうでしょう?
前述のチャンネルF(76年)は、ハンドグリップ型のコントローラーが採用されています。ジョイスティック部分を前後左右に動かすことができるだけでなく、ボタンのように押し込んだり、その逆に引っ張ることも可能だったそうです。
VCSと同時期の78年に登場した、マグナボックス社のオデッセイ2のコントローラーはジョイスティック+1ボタンでした。ただし、本体にQWERTYキーボードを備えていますので純粋なゲーム専用機というよりも、ホビーコンピュータ的なコンセプトを見て取ることができます。
マテル社のインテリビジョン(79年)のコントローラーは、0から9までの数字キー、4つのサイドボタン、円形の方向キーが搭載されていました。ちなみに82年にコレコ社がリリースしたコレコビジョンでも、インテリビジョンに似たようなデザインのコントローラが採用されています。

以上長々と説明しましたが、勘の良い方は既に僕が何を言いたいかお気づきでしょう。
要するに、70年後半という時期から考えると、VCSのコントローラーで採用されている「ジョイスティック+1ボタン」は、未だビデオゲームのスタンダードな操作系ではなかったのです。
そして、全世界で合計1500万台以上を販売したとも伝えられるアタリVCSの原動力の一つは、まさにあのコントローラーにあったのではないかと僕は考えます。

その理由は、70年代後半から80年代初期のビデオゲームにおいて、「ジョイスティック+1ボタン」こそが最も汎用性が高く、直感的な操作感をもたらす優れたインターフェイスであったからです。

例えばパドルコントローラーのみでキャラクターを移動させるとなると、どうしても直線的な動きに限定されます。またボタンによる移動は、ユーザーに煩雑さを強いることになります。「コントローラー縛り」という意味では、こちらの方がはるかに深刻ですね。
しかしコントローラーにスティックが一本あれば、そういった問題は無縁となります。キャラの「直線的」な移動のみならず「平面的」、あるいは「三次元的」な操作をも可能たらしめた点で、ジョイスティックは極めて優れたインターフェイスでした。

つまるところ、ファミコンのコントローラーの価値を認めるのなら、それと同じくらいの程度にアタリVCSのコントローラーにもゲームの間口を広げた功績が存在するのではないか?というのが僕の反論なのです。

そもそも、VCSを多少なりとも知る人間なら、「ゲームが似たようなものばかり」などとは口が裂けても言えないはずですね。とりわけ、「アタリショック」の年と巷で呼ばれる82年以降ですら、VCSには名作と呼べるゲームが多数存在します。
縦スクロールSTG『リバーレイド』(82年)、アーケードからの移植作『バトルゾーン』(83年)、ACTアドベンチャーの金字塔『ピットフォールII』(84年)、連打系スポーツゲーム『デカスロン』(83年)、3D風STG『ビームライダー』(84年)…。
(すみません、アクティビジョン作品が多いですね。個人的に好きなもので)


ところで、仮にVCSのコントローラーに「縛り」があったのであれば、それはジョイスティックではなく「1ボタン」の部分ではないかと思います。
その件については、かつて宮本茂氏が次のような言葉を述べています。
シンポジウム第2部「ゲームデザイン・テクノロジーの今と未来」 宮本氏「Revolutionのコントローラにはまだ謎がある」、小島氏「僕が恐れていること」  (from GAME Watch)


ファミリーコンピュータを発売する際、コントローラにこの十字キーとボタンを採用しようとしたところ、社内でもの凄い反発があったという。

 新しいインターフェイスは、以前のものに慣れ親しんだ者にとっては、変えることに対してひどく保守的になる傾向があるという。宮本氏としては、家庭用ゲーム機は2人プレイが可能なことが基本であり、2つのコントローラをコンパクトに収める必要があったため、十字キーにボタンというインターフェイスデザインは必然だったという。

(中略)ボタンを2つに増やしたことについては、宮本氏によれば「そろそろ、そういう時期かな」と思ったと言うが、「このあたりからこれまでゲームを作っていた人と、これからゲームを作る人の間で葛藤が始まった」という。なんとも凄みを感じさせるエピソードだ。



ファミコンのコントローラーは「操作感」よりもむしろ、「収納時のコンパクトさ」を主眼として生み出されたとの証言が興味深いですが、それよりも僕が注目するのは、「そろそろ、そういう時期かな」との判断から2ボタンを採用したとされる部分ですね。
要するに宮本氏は、83年当時にスタンダードの地位を獲得していた「1レバー+1ボタン」を前提とするゲームデザインが、今後「1レバー+2ボタン」という次のステージへ移行すると見抜いていたわけです。

奇しくもファミコンが登場する83年は、2ボタンで対空、対地を撃ち分ける名作STG『ゼビウス』がリリースされました。
もちろん、それ以前にも『平安京エイリアン』『スペースパニック』といった2ボタンゲームは存在します。(我ながら例えが古いなぁ)
しかし、ビデオゲームの「1ボタン」が限界の時期を迎えたという意味で、間違いなくファミコンの2ボタン採用と『ゼビウス』の登場は象徴的な出来事であったと僕は考えます。

23年前のあの時、確かにVCSは滅びの道へと進んでいました。
しかし、1977年に発売され、記録的なセールスを成し遂げたというそれまでの歴史を考えると、VCSの衰退はハードウェア性能やプログラム技術の限界、あるいはアタリショックなどという“伝説”では説明不足に思えます。
そこには、「ゲームデザインの進歩の壁にぶち当たった」という、大きな“時代の流れ”が絡んでいるのではないでしょうか?



(関連記事)
「ATARI 10in1 テレビゲームズ」レビュー
戦争と平和とゲーム (ATARI 『ミサイルコマンド』に寄せて)

今回のエントリーを書くにあたり、以下のデータベースを参考にさせて頂きました。
AtariAge
The Killer List Of Videogames

(06/12/18) 本文一部訂正


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